運弓と脱力 - 二胡弦堂

 


 拉弦楽器の運弓は力を入れてはならない、脱力せねばなりません。まずこのことを知っておかねばなりません。しかし、これはわかったからと言って容易にできるものではありません。結構時間もかかることなので、生徒さんがどのようにして自然に習得できるのか、先生方の中にも悩んでいる方が多くいます。

 優れた弦楽演奏で評価されているものの1つにウィーンの交響楽があります。特に30~50年代が優れているとされ、古い録音でありながら今尚聞き継がれています。スタジオ録音以外にライブのものもあります。この2種の、演奏という観点から見た大きな違いは鮮度です。どちらもどこかの会場に集まって演奏します。ということはその時々で最初に音を出す瞬間があります。ライブはそれが録られており、スタジオではおそらく数回やり直し、或いは音の確認、打ち合わせを経て集音しています。ライブでも大抵の場合は前々から合わせてあるでしょう。しかし一旦は帰宅して、改めて集まっています。そうしますと人間の集まりである以上、心理面を中心にコンディションに多少なりとも変化があります。ある人は優雅にカフェで、しかし別の人は子供が熱を出して面倒を見てから来たかもしれません。プロです。このような私情を仕事に持ち込むでしょうか。極めて繊細な仕事をする人は私生活まで全て調整せねばなりません。しかし常に思うようにはいきません。それで微妙な変化が演奏に反映されることがもしあるとすれば、再構築、再結成が必要です。当時のウィーン国立歌劇場ライブであるとか、フィルハーモニーの演奏会などは、はっきり明確にわかるぐらい、出だしは探り合いから入ります。お互いに気を遣っている感があります。それで硬いです。何が? 運弓です。そう、脱力が足らないのです。皆さんも経験があると思いますが、楽器も最初から伸び伸びとは鳴らず、最初は少し音色が硬かったりします。楽器も人間もエンジンが掛かってくるまで時間が掛かっているのです。これは彼らだけに見られる特徴で、他の楽団ではこういうことはありません。いかに繊細だったかがわかります。それにしてもどうしてこういう現象が生じるのでしょうか。

 スムージーな運弓というのはあらかじめ予知された動きが必要です。実際に音が出るよりも腕の返しの方が先行します。そこを音を確認してから出すというのであれば、聞いて確認にしろ、譜を見て確認にしても同じで、何がしかの硬さが伴う筈です。先行せねばならない動きが欠けているからです。そこを初見で未知の譜を見てスムーズに演奏するというのはかなり先読みしていないとできないことです。しかしそれは無難なアーティキュレーションで演奏するならばです。しっかり譜を読み込みながらとか、他者の演奏に波長を合わせるために高い基準があれば、その代償として幾許かの硬さは発生しうるということです。技術があって、その上で表現の面でそれほど高い基準を設定していないなら発生しない問題です。

 一方、譜に記された音を音程と長さだけの音価でしか測らないなら、その演奏は常に硬いままです。何度練習しても硬いままです。その奏者がそう捉えたそのままの音が出ているだけです。その音の意味を表現する気がなければ、あらかじめ予知も何もありません。ただ書いてある音をベタっと糊で順番に貼り付けていくように淡々と並べているだけです。試しに、ご自身がとても共感できる曲をある程度練習してみてください。脱力の問題はその時は無くなっている筈です。なぜなら自分の中に明確なイメージがあってそれは硬いものではないからです。単に自分の望む音が出ているだけです。多くの場合、硬いのは腕ではない、頭の中なのです。全く意味のない練習曲でも脱力できるなら、それは様々な作品を理解して演奏してきた蓄積があるからです。求められているのは真に音楽的な体験の量です。

 つまり、奏者が音楽表現の面で一定の水準にあり無難な範囲でドライブしているか、かなり練り上げられた時に十分な脱力は得られるものです。表現なんてものは全くわからないか、更なる表現を探っている段階では硬さはある程度あり得ることです。ですから、自分は常にいかなる時でも脱力していると言う奏者は残念です。真面目に取り組んでいてそうなるとは思えません。多分に頭の中の問題なのだから。

 そこで老師の中には、弓の持ち方ぐらいは教えますが、それ以降は何も言わないという人がいます。「脱力せよ」と言ったら余計に進歩が遅くなるので一切言わないと言う人もいます。それよりも作品そのものに向き合い、誠実である方が問題解決になるということです。

 そうしましたら、どういう作品を取り上げていけば良いのでしょうか。それは当然、中国で用意されている教本が一番良いのは言うまでもありません。こういう問題は当たり前に踏まえて作られています。歴史の蓄積があります。かつてはそうでないものもありましたが、こういうものは出版停止で淘汰され、今では入手困難になっています。これはこれで作者の強い主張が反映されているのでおもしろいのですが、学習には適していません。かなり振り回されます。昔の人ですから熱意は凄いですが、そこがかえって解りにくいということになりがちです。良いものが再販され、また改良されて今に至っていますので、普通に流通しているもので十分です。

 しかしよくある問題は、生徒の方で、イメージと違っていた、やりたいことと違う、こんな曲はやりたくない、D調は良いがG調は一切やりたくない・・などの主張をするというものです。そして「中国音楽はやりたくない」となります。教本自体が全く気に入らないという人が多いという傾向もあります。この場合は日本で出ている教本を使うことができます。これはこれで当事者が納得しているのであれば、全然結構だと思います。

 振り返って考えてみますと、中国の教本は、中国の楽器を適切に演奏できるようにするため、中国文化、中国音楽を身につけることを真面目に考えて作られています。中国の学習者は、中国の文化圏で生活し、ある程度素養のある段階で、次は楽器を、となっています。そのため、教本がこのように作られていないと齟齬が生じます。受け入れられません。しかし外国人は違います。ステレオタイプなイメージを当てはめようとしますから、根本が合っていません。ですが現代の情報化社会でよくわからない海外の文化はあるでしょうか。中国文化にしても商業のルートで分かりやすくされたものが提供され、それなりに知ることができています。その程度では埋められない溝があるのかもしれません。そしてそこを埋めるのは教本の役割ではありません。

 ですから、まずは中国のメソッドに合わせるなど割り切りが必要になってきます。これができないと、もうただ楽器をやっているだけの人になってもしょうがありません。中国音楽の魅力ある資産は技術的に難度が高いので、文化的に味わうというのは結構大変です。苦しい修行期間がどうしてもある程度長くなります。この期間は、運弓での脱力を克服するとか、そういうことはやりません。単に中国音楽に取り組むだけです。それだけで技術面も充される筈です。本当に細かい部分の技術に注力するのは、専門家、プロのやることです。学習者がやることではありません。では、西洋音楽ばかりの教本ではどうなのでしょうか。これが意外と難しいのです。できるという人もいるのかもしれませんが、中国音楽をやった方が技術面の諸問題は解決しやすいでしょう。

 また、弓は全弓で演奏せねばならないと教える先生もいます。大きな音が鳴ってしまうので自宅で練習するのは難しいこともあります。それでも弓はいっぱい使わねばならないというのはどういうことなのでしょうか。

 フルトヴェングラーの演奏は、とても小さな音だったと言われます。現代では録音で聴くので爆音に感じるのですが、しかしそもそも本当に爆音を出していたら録音で飽和します。デジタルではクリップですが、アナログなので飽和します。小さいからダイナミズムが集音でき、ステレオではボリュームで音量を変えられるので凄まじい音響効果を出せるのではないかと考えられます。このことをベルリン在住のコントラバス奏者・高橋徹さんに伺いました。

 高橋さんはフルトヴェングラーの演奏は聴いていない、だいぶん昔ですから、それで断言は出来ないという前提でいうと、彼の感覚では鳴りまくっていたとのことです。80年代初めからご存じのカラヤン時代のベルリンフィルがそうだったと。これを簡単に表現すれば、爆音は傍で煩く、鳴りは奏法に依り音を広く遠くに届けるから実現すると。柔らかく豊な音が基本とのことです。❌は舞台上で爆、⭕️はホール全体に響かせられ、加えてダイナミックで色を変える。伝統的ベルリンフィル奏法はソロ曲ではまず用いない、弓を速く長く使う、があります。短い音でも全弓、知らない人は⁉️となりますが、それで音を飛ばします。

 このご説明では、全弓を使うのは、音の大きさではなく距離だと。短い音でも全弓、もしこれが弱い音であっても、軽く抑えて素早く全弓なのです。そしてこれは楽団奏法の特殊なものであるということです。音量は抑えて全弓、音量ではなく、鳴りまくっている状態、この状態を作り出す奏法がこれなのだということです。

 これは二胡弓の使い方でも言えることです。ですから、全弓を使わねばならないという考え方はホールでの演奏を想定しているということになります。少なくともその範囲においては正しい奏法だと、そういうことになります。