中国弦楽器のデザインについて - 二胡弦堂

 


 二胡はたまに変わったデザインのものはありますが、規格はだいたい統一しています。それが音質との深い関係があることは、蘇州、上海、北京でほぼ同じ楽器を作っていても若干の違いでどこで製造されたものかおおよそ見当がつくことからわかります。上海と蘇州の楽器は同じ六角であっても琴頭を見ればどちらで作ったのかわかります。もちろん一般の人が見ても同じにしか見えませんが、我々二胡にある程度関わっている人間であれば一瞥しただけですぐに判別がつきます。これだけ決まっているのは、ベストなサウンドに対する明確なイメージがあるからです。変えてしまうと音が変わるので無頓着なのは好ましいことだと考えられていません。その上でデザイン上の要求から違ったものも作ることはありますが、そこはしっかりした音色に対する概念が土台にあってのことですから、外見良ければとりあえず良し的な考えで作っているものではありません。

 デザインはもともと何か参考にするものが、例えば自然界とかどこかにあったであろうと、特に琴頭に関しては議論になることがあります。鳳凰の首であろうとか、いや月ではないかなどいろいろありますが本当のところはわかっていないとされています。あんな風に細い箇所を作るのは昔の二胡にはなかったので音質上の要求から自然にああいう風になっていた面もあったのだろうと思います。

 広東高胡は二胡から派生した楽器ですが、なぜか琴頭は龍に変わっています。琴頭は音を放出する箇所の1つなのでここの形状は重要なのですが、二胡のように細いと高胡のような高音の楽器では響のバランスが悪かったのだと思います。龍のような複雑な彫り込みは手間がかかるので製造の観点からはそれほど好ましいとは思えませんが、あのような複雑な表面を持つことで理想的な拡散が得られたのだと思います。龍なんてものは今時人気が得られないと思いますが、何かああいう複雑な形状を保っていないとあまり音が良くないということなのだろうと思います。しかしそれにしても何で龍なのでしょうか。

 龍というのは多分に宗教的なものです。中国の伝統的な宗教です。多くの人は伝統習慣だと思っていて宗教と思っているかどうかはわかりません。龍は様々な伝承と関係があり、吉祥のシンボルの1つです。龍は存在しない生物なのでどうしてこういうものが出てきたのか、そして何で高胡の意匠に使われたのか、謎が多いということでここで解明を試みたいと思います。

 まず高胡は蛇皮を使っています。だから龍なのです。非常に関係があります。聖書(以下は新共同訳から)の冒頭、創世記1章1節には「初めに神は天地を創造された」とあります。そして最初の人間、アダムとエバを創造します。3章では全ての生物のうち、最も賢いのが蛇だったとあり、これがエバを欺いたことについて書かれています。そして蛇は神によって呪われ「お前は生涯這いまわり塵を食らう」と宣告されます。確かに地上には言葉が話せる鳥などいろいろな生物がいますが創世記に書いてあるような深い内容の事柄を人間と論じることのできる知能を持った生命体は他にいません。そして我々は蛇がそれほどの知能を持っていないことも知っています。そう考えるとこの記述は奇妙です。しかし黙示録12章9節には「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの」とありこの"年を経た"というのがどういう意味なのか、ギリシャ語本文を参照すると「初めから蛇と呼ばれていた」という意味だということがわかります。初めというのは創世記の記述のことに他なりません。しかしサタンは蛇のような呪いは受けていないので蛇とサタンは別のものです。それでもこの関連付けからサタンが蛇を利用し話させたのか乗り移ったということはわかります。それともう1つは、龍と蛇が同じものとして扱われているということです。伝承として伝わっている龍、これは東洋と西洋で異なりますが、共通点もあります。そこから蛇に対する神の呪いが意味しているのは、蛇が手足を失ったということだと推測できます。ということは我々は龍の皮を使っているのでしょうか! どうでもいいことですが、少なくとも最初に龍の意匠を採用した人物はそれを意識していた可能性はあります。なぜなら、中国の謎の伝統宗教は元はユダヤ教だったからです。写真を一枚掲載してありますが、これは中国でよくある赤い紙を戸口に貼り付けている風景ですが、これは出エジプト記12章にある過越の一夜から伝承されており、7節にはこうあります「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る」。羊の血を玄関の柱と上部に塗るよう指示されています。おそらくこの習慣を今でも忠実に守っているのは中国人ぐらいじゃないですか。血が赤い紙に変わっていますが、書いてある内容を読むとこれが元は過越に関係したものであることがわかります。そしてこれは大晦日に貼られ「何時ぐらいに貼るのが良いのか」周囲に聞く人もいるぐらいです。出エジプト記の記述が現在では大晦日に変質していることがわかります。中国では春節の前夜、ユダヤ暦ではニサン14日です(キリストの最後の晩餐と同じ日)。日本の鳥居もそうだし、中国とユダヤとの関連については非常に多くてきりが無く、専門書も出ているぐらいなのでこれぐらいでやめておきますが、龍というのはこういうところから出てきたものなんですね。そうするとユダヤ教をルーツに持つ中国人の一部がどうして悪魔の象徴である龍をありがたがるのか、皇帝の象徴にさえなっているし、どうしてこれほど注目するのか謎があります。しかもユダヤ教は偶像礼拝禁止で、出エジプト記20章4,5節、十戒の一部ですが「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」とあります。だから龍は崇める対象ではないのです。神道も神社には基本的に偶像はないですね。せいぜい狐とかそれぐらいですが、偶像ではないですね。そもそも聖書の中で蛇はどういう扱いなのでしょうか。出エジプト記7章9節では神がモーセに「もし、ファラオがあなたたちに向かって、『奇跡を行ってみよ』と求めるならば、あなたはアロンに、『杖を取って、ファラオの前に投げよ』と言うと、杖は蛇になる」とあります。ファラオは神に逆らっていたので神がモーセとアロンに奇跡を起こす力を与えます。その1つが "杖を蛇に変える" というものでした。モーセがサタンの使いであることを示すためでしょうか。違いますね。そして相手もモーセがサタンの使いだとは見なしていないこともわかります。しかしこの奇跡は神が蛇を呪ったのと同様、お前にも呪いを下すというファラオに対する警告だったと受け止めることはできます。続いて民数記21章を見ますと、民がモーセに不満を抱くようになったので神が怒り、毒蛇を送り込んで大勢が死んだことについて書かれています。これも似たような意味合いだったと思われます。民は悔い改めたので、8,9節を見ますと「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る』。モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」。炎の蛇か・・。民は数が多いので、この炎の蛇は相当巨大だった筈です。そうでないと見えないからです。そして死にそうになって助けてくださいという時に、それを仰ぐと治癒されると、そういうことだったのです。偶像礼拝禁止の民族にあってこの記述はかなり例外的ですが、しかも蛇が救いの象徴として掲げられています。これがギリシャ神話の一部にも伝播し、医術の神が持っている杖にはなぜか蛇が巻き付いています。そしてこれがWHO(世界保健機関)の紋章にも採用されています。ユダヤ教において象徴とされたものはこの炎の蛇と契約の箱ぐらいしかないので、救いをもたらすものとして蛇、あるいは炎の龍が遠く中国に至って使われてきたということが考えられます(契約の箱も神輿として伝承されています)。中華の初期の歴史は苦難が多かった、なぜなら人々は大河の流域に住んで文明を開きますが、黄河は非常に御し難い河だったからです。それでも彼らが遠く黄河流域まで渡ってきたのは様々な理由があってのことでしょう。そして必ず神が救って下さるという信仰が龍となって残されてきたのだと思います。皇帝も龍をまとい、地を統べる救出者として、悪魔の子ではなく、天子(神の子)として支配したのです。そこで最初に戻りますが創世記冒頭の「初めに神は天地を創造された」つまり龍も神の創造物で実在していたもので、初めからの蛇が滅ぼされることによって、蛇にかけられた呪いが解かれることも暗に示されています。

 中国人は高胡に龍の意匠は疑問を持たないようですが、日本人は不思議に思うようで時々「なんで?」と聞かれます。非常に複雑な背景があります。面倒なので「うーん」と言ってはごまかしていましたが、知らない方がいいかな、かわいいぐらいに思っておけばいいんじゃね、と思っていたのですが「気になってしょうがない」とか言われるとちょっと回答することもあったのです。信仰を示すものでもないので、持っていたからといってどうということもないのですが。呪われた、あるいは救いの象徴となった蛇の皮を使ったということ、そこに龍を彫ったのは何か中華伝統に関係した気持ちが表れていたのだと思います。アダムとエバが罪を犯したことによって人は死ぬようになったので、蛇の呪いが解かれることは人類の救いをも意味するということ、そういう信仰心が表れたものであるという部分もある程度含まれているかもしれないということなのです。皆さんの中で霊に憑かれやすい方とかおられると思いますので、何かそういう霊的なものというか、そういう意味で敏感なものは販売すべきではない、敏感な人が見たら何か感じるようなそういうものは小店では置いていません(アクセサリー関係では少し気を遣うこともあります)。古代伝来の蛇あるいは龍に関しては、レビ記19章26節には「占いや呪術を行ってはならない」と記されていますから、そういう関係のものではないということなのです。荒野で彷徨っていたユダヤ人と、自然と戦っていた古代の中国人の感情がシンクロしたものでもあります。世間の大部分の人はここでいう救いを信じてはいないし、信じているという人がいるならその人たちには問題ないと思いますが、非常に反発を感じる方におかれては龍のものは買わない方がいいかもしれないということは、個人の決定ですのでなんとも言えませんが、避けるということもあるかもしれません。こういう背景があるので、龍の衣を纏うとか、そういう置物とか美術品を家に置くということは好ましくないと思います。神に変わって権威を帯びるとか、家にまで飾りを置くと偶像礼拝に近くなってくるので、どうしても不敬な意味があるからです。中国の伝統的な人たちが見て好ましいようには受け取らないでしょうね。寺院には龍の飾りは多いですが、似たようなことを一般の家でやるのはおかしいので、中国人と交流が多い人であればやめておいた方が良いかもしれません。これらのことと、楽器の意匠に使われているのは意味合いが違いますね。またラーメンのお椀とかそういうものに龍が書いてあっても気にすることはないと思います。気にする方がおかしい気もします。救いはキリスト教とも一貫しているので、ユダヤの末裔が多いという温州市あたりでは教会がすごく多いらしいですね。見にいったことはないのでわかりませんが、キリスト教は龍は嫌うのでそういうところではおそらく龍とかそういうものはないと思います(サタンの象徴と思っている人が多い。中世の十字軍時代に会議で遠征を指揮する王侯を決定し、その最高指揮官に権威を与えるために伝説が制作されていました。彼が悪霊の跋扈するダンジョンに侵入し最深部のドラゴンを倒してその血を浴び不死身の英雄になったというのが大まかな筋でした。人々は強大なイスラム教徒に恐れをなしていたので、神によって祝福された偉大な英雄による親征を以て悪に鉄槌を下し聖地を奪回するというシナリオに人々が酔い、それらの人々を集めてはるばる旅立っていました)。そうすると周りでも嫌がる人もいるかもしれないので(そういう固い人とあまり論じるのは好ましくないですが...もちろん明確な考えが相手にもあってのことであれば建設的だとは思いますが)、歴史的背景とか宗教的由来について一応知らないよりは知っておいた方が良いとは思います。ここで書いてあるのは最低限で、もっと他にも関係する事柄はありそうなのは感じられると思いますが、二胡奏者としてはこれぐらい分かっていれば十分ではないかと思います。