弓法について - 二胡弦堂

 


 世の中に数多の楽器あれど、"人の声"に勝る楽器はありません。言葉が持つ力を伝達するのに必要なすべてを備えているからかもしれません。「必要なすべて」とは何でしょうか。感情は量詞で表すことは可能ながら測り出すことはできません。測れないけれどすべてを受取ることはできます。感情は言葉に載せた時に浸透力が増します。そして旋律と合致した時に、もっと大きな影響力を持ちます。声はそのために「必要なすべて」を備えています。

 もし楽器から言葉の力を引いたらどうなるでしょうか。浸透力はある程度失いますが、それでも魅力的な音楽は楽しめます。上手に歌えない人もいるので、声に換わる楽器があればその方が良いという人もいます。言い伝えではバイオリンはそのために作られたと言われています。

 中国の弦楽器はどのような背景で作られたのかわかりませんが、これも声とは密接な関係があったようです。中国の弦楽器はいずれも歌唱の伴奏として使われてきました。声に取って代わる事はあったのでしょうか。かつてはなかったようですが、西洋の音楽が東洋にもたらされるに至り「独奏楽器」としての側面にも光が当てられるようになってきました。それ以来、二胡や板胡のために多くの独奏曲が作曲されてきました。「声」と「拉弦楽演奏」が切り離されたからといって、歌うように演奏する醍醐味が失われたわけではありません。「歌うように演奏する」とはどういうことなのでしょうか。

 歌唱にはいろいろな不文律があります。息を吸ったり吐いたりする制約の影響を受けます。心臓の鼓動のスピードも影響を与えます。言葉に内包する浮き沈みも影響があります。世界人類が共通に持っている要素と共通性のない言葉という複雑な違いがあります。それゆえに「歌うように演奏する」ということは具体的には地方によって違うということになります。日本の歌心を地球の反対のブエノスアイレス人が十分に理解できると言ったら皆さんは「どうしてこの人はこんなすぐにわかるうそをつくのだろう」と思います。ラテン人なのでこの程度の発言は許容範囲内です。そして彼或いは彼女のタンゴ的なノリで歌われる演歌を聞いてますます複雑な心境になります。社会経験豊富な皆さんは、しっかり空気を読んで「素晴らしかったよ」と言います。根本的なところが違うので、そう言っておくしかないような気もするからです。これぐらい「歌う」ということの意味は民族によって違います。

 その"差"は具体的にどういうところに表れるのでしょうか。拉弦楽器の場合であれば「指法(zhi-fa)」それ以上に「弓法(gong-fa)」が非常に重要で、歌唱における呼吸は弓の推し引きと関連があるので、この扱いで演奏の性格を左右することがあります。確かにどのような方法でも演奏はできるのですが、弓の方向を逆にするだけでも全く違う解釈になってしまいます。言葉は息の使い方を伴いますが、同じ意味のことを話す場合でも言語が違うと声調が変わってきます。それを歌唱に転換した場合、地方によってそれは一定の法則を持ちます。弓の方向だけでそれに影響を与えるのであれば、弓の扱いは方向だけでなくもっと多くのことが関係しているものなので、特定の地方の音楽を演奏するというのはそんなに簡単なことではないということがわかるし、安易にわかったと言ってはいけないという気もします。この問題を追及するとキリがないので、せいぜいやったとしても当地の言語の特徴を掴むことぐらいしかできないのが普通ですが、そうしたものがすでに音楽に転換されたものの特徴も把握するのも重要になってきます。それゆえ、地方音楽の特に弓法について、よく理解できないものがあっても、当地の言語と照らし合わせて考えないとどうしてそうなっているのかわからないものもあります。もしやり方を換えるのならば対象を十分に理解した上でなければできません。もっとも地方の音楽的素材を抜き出して全く別の作品を作るというのであればその限りではありません。地方風格において弓法はほとんど決まっていますが、ある名家が原典をどのように換えたのかといったことを見ていくのは興味深い場合があります。それは主に音符を足したり(加花)、引いたり(減字)することによって施されていきますが、そうすると弓法をどのように帳尻を合わせるかという問題は頻繁に出てきます。1つの音符を2つに増やした場合、それを連弓で擦るならいいですが、分弓とするとそれ以降の弓の方向は逆になります。それは容認されるのか否か、呼吸感を考えた時に別の箇所の修正は必要なのかといったことが吟味されます。もし過ちがあった場合であっても地元の人が聞かないとわからない類いのものであるかもしれませんが、そういった精神面に直結するような重要な部分で無頓着であれば、それは芸術全体の格調を損ないます。他所の地域の人には何もわからないが違和感だけはどうしても伝わってしまうということはあり得ることです。そのあたりが古典、古曲の弓法が重要だとされる所以だろうと思います。