運弓と脱力 - 二胡弦堂

 


 拉弦楽器の運弓は力を入れてはならない、脱力せねばならないと言われます。これをどのように達成すべきかについてお話ししたいのですが、少し捻くれた見方だと捉えられるリスクを承知で申し上げますと「考えてはいけない」というのが正しいところでしょう。つまり、運弓についてご自身で「脱力できていない」と悩んだらもう無理です。同じく、もう初心者ではないのに老師が「あなたは力が入り過ぎている」と指摘したなら、もう改善は無理です。本当に無理だったら、このような項目は立てないので、しかも考えてはいけないと言っておきながら、今から詳細の分析に入ろうというのだから、どういうことなのかわからないという方もおられると思うので、まず1つ申し上げますと、脱力して運弓している人たちは力を抜こうとして達成してはいません。違うことをやって達成しているし、それが普通なので、脱力に注力する考え方はとても独特です。脱力という一面にフォーカスするのは、明白となった結果の1つをありのままに述べただけで、ただ存在する1つの事象を端的に指摘しただけのことです。客観性は必要です。だがその客観性は何ももたらしません。「お前はダメだ」とジャッジされて終わってしまう、それだけです。そこでそういう方がここに来られたと思うので、今から運弓と脱力のお話を致しましょう。

 では、名人たちは運弓の際に脱力できているのでしょうか。本人らに聞けば良い、そうすると大きく纏めるとおそらく3通りの回答があるでしょう。1.「私は完璧です」。2.「いえ、まだまだ修行の身です」がまず想定されるところです。この2種は実のところ何も答えていないのと同じです。どうしてなのか。次に行きましょう。3.「ちょっと練習しないと無理かな」。待ってください、質問した相手は名人です。彼は今更練習しないといけないのか、その練習という意味合いが少し違うのですが、もしあなたの老師が3番だったら、あなたは運弓には悩んでいない筈です。なぜならその老師は本質を理解している、老師の立場で普通3番は言いにくい、表面だけ謙遜するにもそういう言い方はしない、そこを敢えてこういう言い方をするというのは既に凡人ではない、かなりわかっていないと言えないことです。これはどういうことなのでしょうか。

 優れた弦楽演奏でよく挙げられるのはウィーンの交響楽です。特に30~50年代が優れているとされ、古い録音でありながら今尚聞き継がれています。スタジオ録音以外にライブのものもあります。この2種の、演奏という観点から見た大きな違いは鮮度です。どちらも何らかの会場に集まって演奏します。ということはその時々で最初に音を出す瞬間があります。ライブはそれが録られており、スタジオではおそらく数回やり直し、或いは打ち合わせを経て集音しています。ライブでも大抵の場合は前々から合わせてあるでしょう。しかし一旦は帰宅して、改めて集まっています。そうしますと人間の集まりである以上、心理面を中心にコンディションに多少なりとも変化があります。ある人は優雅にカフェで一杯やってから来たかもしれません。しかし別の人は子供が熱を出していて面倒を見てから来たかもしれません。プロです。このような私情を仕事に持ち込むでしょうか。極めて繊細な仕事をする人は私生活まで全て調整せねばなりません。しかし常に思うようにはいきません。それで微妙な変化が演奏に反映されることがもしあるとすれば、再構築、再結成が必要です。当時のウィーン国立歌劇場ライブであるとか、フィル・ハーモニーの演奏会などは、はっきり明確にわかるぐらい、出だしは探り合いから入ります。お互いに気を遣っている感があります。それで硬いです。何が? 運弓です。そう、脱力が足らないのです。皆さんも経験があると思いますが、楽器もいきなり伸び伸びとは鳴らず、最初は少し音色が硬かったりします。楽器も人間もエンジンが掛かってくるまで時間が掛かっているのです。これは彼らだけに見られる特徴で、他の楽団ではこういうことはありません。いかに繊細だったかがわかります。それにしてもどうしてこういう現象が生じ得るのでしょうか。

 スムージーな運弓というのはあらかじめ予知された動きが必要です。実際に音が出るよりも腕の返しの方が先行します。そこを音を確認してから出すというのであれば、聞いて確認にしろ、譜を見て確認にしても同じで、何がしかの硬さが伴う筈です。先行せねばならない動きが欠けているのだから。そこを初見で未知の譜を見てスムーズに演奏するというのはかなり先読みしていないとできないことです。しかしそれは無難なアーティキュレーションで演奏するのならばのことです。しっかり譜を読み込みながらとか、他者の演奏に波長を合わせるために高い基準があれば、その代償として幾許かの硬さは発生しうるということです。技術があって、その上で表現の面でそれほど高い基準を設定していないなら出てこない問題です。

 一方、譜に記された音を音程と長さだけの音価でしか測らないなら、その演奏は常に硬いままです。何度練習しても硬いままです。演奏技術の問題ではない、その奏者がそう捉えたそのままの音が出ているだけです。その音の意味を表現する気がなければ、あらかじめ予知も何もありません。ただ書いてある音をベタっと糊で順番に貼り付けていくように淡々と並べているだけです。では試しに、ご自身がとても共感できる曲をある程度練習してみてください。脱力の問題はその時は無くなっている筈です。なぜなら自分の中に明確なイメージがあってそれは硬いものではないからです。単に自分の望む音が出ているだけです。多くの場合、硬いのは腕ではない、頭の中なのです。あなたの老師は全く意味のない練習曲でも脱力しますか。それは様々な作品を理解して演奏してきた蓄積があるからです。求められているのは真に音楽的な体験の量です。力を抜こうとビビった経験の量ではありません(このようなものは自慢にもなりません)。

 つまり、奏者が音楽表現の面で一定の水準にあり無難な範囲でドライブしているか、かなり練り上げられた時に十分な脱力は得られるものです。表現なんてものは全くわからないか、更なる表現を探っている段階では硬さはある程度あり得ることです。ですから、自分は常にいかなる時でも脱力しているとする奏者は残念です。真面目に取り組んでいてそうなるとは思えません。多分に頭の中の問題なのだから。このことは拉弦楽器奏者であれば当然知っていてしかるべきことで、このようなところを読んでやっとわかったと言っているようではいけない、どこにもこんなことは書いていない、それなりに経験と素養があれば自然とわかることだから。だからこれまでわからなくて今まで来たのであれば、環境か自分自身の水準は相当悪いと思った方がいいです。普通の状況では脱力系の問題提起すら出ない筈です。

 そこで最初に戻りますが、脱力を考えている時点で無理です。そこを指摘してスポットライトを当ててくる周囲の意見を真面目に聞いていてはいけません。1mmも進歩しません。もし老師から脱力できていないと言われてしまったら、あなたは諦められています。もう進歩はしないだろうと目測されています。なぜならそれは改善点ではなく結果だから。そうなると、あなたに可能性を見出してくれる別の老師を探すか自力で頑張るしかありません。技術の問題よりもまずは作品に対する理解がなければ、この種の問題は解決しません。(注:初心者に「腕が硬い」などの指導をすることはありますし、これは適切でしょう)。

 そして作品理解に対する希求は老師と生徒の双方に必要です。このこと以外でも何らかの面で互いに考え方が違っていると難しくなるのは、ほとんどの方が既に体験されていることと思います。ですからお互いに合わせる努力は多少なりともあると思います。弦堂店主は人に教えたりはしないのでオファーが来ても断りますが、しかしどうしてもと言われればこれまで受けたこともありました。生徒には日本人と中国人はいませんでした。国籍はバラバラでした(本論とは関係ありませんが黒人もいませんでしたね)。これらの生徒の半数以上は全く伸びませんでした。イメージと違っていた、やりたいことと違う、こんな曲はやりたくない、D調は良いがG調は一切やりたくない、などの主張をしておられました(はっきり思ったことを言うように教育されとるのでしょうね)。大陸での話なので使っていたのは中国に一般にある教本でしたから特別なことをしていたわけではありませんが、本自体が全く気に入らないという人が多いという傾向がありました。ですから、おそらく同じ理由で日本でも中国の教本をそのまま使っていないところもあるのではないでしょうか。いずれにしても初心者に何を使おうが大同小異ですが。弦堂は強いて教えてくれと言われて受けた立場なので、話も聞かない、一切考えを変えない生徒はすぐに辞めさせました(紹介者が弦堂を高評価しているが肝心の生徒はそうではない、何もわかならないという場合はこのようにほとんどすぐにダメになっていました。それでこういう問題が発生していました)。しかし一般の教室では生徒を集めねばならないので簡単に辞めさせるのは難しいという状況もあります。それで老師の方が全面的に生徒の話を聞いて合わせるということもあると思います。そもそもこういう生徒の割合が大きいのであれば、当然合わせねばならないという話にもなります。これもプロの教師の仕事かもしれないし確かにそうでしょう。初心者に何を使おうが大同小異? とんでもない、初心者こそ丁寧なケアが必要ではないでしょうか。だが、余りにもあらゆる希望を聞いてしまった時に、そこで発生する幾つかの問題の1つが本稿の表題なのです。言い方を変えると、楽器の練習に集中する余り、中国作品の理解は考えていないのです。少なくとも表向きは希望もしていない。

 実のところ、この問題の根本原因は老師でも生徒の問題でもありません。どのような楽器でも初心者はできることが限られている中で楽しんで学習させねばならないから様々な工夫が凝らされています。これは中国音楽でも変わりません。しかしそれは中国人向けなので外国人には難しいものがあります。それで止むを得ず外人向けに合わせてあるものがあったりします。だが、できればそうしたくはないし、どうしてもと言う場合でも最初だけに留めたいものです。このようなジレンマが発生するのは中国音楽を理解するのが難しいということがあります。これは楽器の練習で体験できることもあるし、ショーのようなものも含めてプロの演奏で体感することもあります。広告とか、様々なものがあります。もちろん誰でも楽器を始めた時は初心者です。しかしそれでも最初の段階からその楽器の魅力はある程度感じられるものです。二胡はそこが少し難しい。中国でも他の楽器、京胡、板胡、高胡はそのようなことはありません。もっとわかりやすい、始めからある程度わかりやすいです。簡単という意味ではなくて、単純に音を引っ張っただけで魅力がわかりやすいということです。二胡は少々難しいのです。だったら板胡あたりから始めればどうか? これが音が大きいんです。舞台伴奏の楽器ですから。色々考えると二胡になってきます。同じように古琴も難しいです。古箏はわかりやすい。では二胡は古楽器はどうか。これはわかりやすいのです。しかし現代楽器の方が扱いやすく練習もしやすいです。ただ音色の強い魅力が古楽器の方が明確というだけです。結局、二胡になってくる、状況を考えるとそれが無難ということになります。大陸でも十分に考えられた上で決まっています。その上、中国音楽自体もそんなにイージーなものではありません。しかしこのあたりの難しさをわかった上であれば、問題も克服しやすいのではないかと思います。もちろん生徒の方にも素養がある程度求められるはずです。生徒が二胡をやりにきておいて「中国音楽はよくわかりませんのでやりたくありません」では先生が神様でも難しい、しかし生徒がそう言うにもそれなりの理由があることもあり、結局のところ、そういう現場から「運弓で脱力できない」といった話が出るのではないでしょうか。

 この問題を抱えておられる方は多少なりとも苛立ちを感じておられることが多いので、そこへ何かをはっきり言うのは憚られるのですが、なぜかこの質問は多いのです。先生方も「どうしたらいいんでしょうね」と言われることはあるし、これまでは返答するにも非常に当たり障りない言い方をしていたわけですが、はっきり言ったところで、つまり上記のようなことを簡潔に言ったところで、皆さんもこれぐらいは大体わかっていると思うのです。そもそも二胡を学習しようとするからいけない、二胡の教室に通っておいて二胡はまず考えないというのはおかしな話なのですが、中国音楽を学んでいるという意識が欲しいですね。そのために二胡を使っているという感覚で最初から臨むべきです。音とか表現を確認する道具が必要だから、その道具の使い方を学んでいる程度の感覚でいたいものです。