京胡の音域についての論考 - 二胡弦堂

 


 二胡は周少梅によって三把頭奏法が確立され現代に至っていますが、それ以前はもっと小さな楽器で、高い音域を多用することはなかったようです。北京の京胡も同様で、基本的に小指は使わず、音程にして10度ぐらいの幅で演奏していました。京胡は江南地方にもあって当地では歓胡という名称に変わります。二胡が改造されて大型化するまでの二胡というのは歓胡のことだったのかもしれませんが、都市によって多種多様だった二胡ですから、あいまいなのかもしれません。

 音域を広げようと思えば簡単だった筈で、中国北方では北京の京劇は京胡を使いますが、北京周辺では京劇をやらず、板胡や四胡を使って戯劇の伴奏をしていました。これらはもっと音域を広く使っていたので、北京だけわざわざ狭い音域の楽器を使っていたのは考えてみると奇妙なことです。それに京胡を改造しなくてもより広い音域は使えるわけで、使えるものを意図的に使わなかったということにもなります。これはどうしてなのでしょうか。

 京劇において、歌唱は京胡よりも広い音域を歌います。音程が上昇したり下降すると、京胡は音域が狭いのでどこまでも付いていくことができません。決まった音域の果てに達すると、音程を一オクターブ上げたり下げたりして対応します。この転回が京劇の1つの醍醐味で、これを善用することによって独特の表現を獲得しています。しかし、この効果は楽器の音域を狭めなければ得られないわけではありません。音域のより広い楽器でも、歌唱より音程が8度前後したり同音程で付いたりは自由に可能です。それにも関わらず京劇では、京胡にそういう自由を与えず、狭い音域を強制しています。

 北京は元代より歴代王朝の首都だったので、かれこれ700年以上は帝国の首都として機能しています。貴族や政府高官、富豪など特権階級が住むところであり、その状況は現代でも大きく変わっていません。巨大な権限、地位、屋敷などを所有しています。人間という生き物は自分にないものに魅力を感じることと関係があるのか、歴代皇帝や宮廷の人々は小さなものが好きだったようで、台北の故宮博物院に行くと、ミニチュアの制作物が結構あります。それらを収める棚までミニチュアを作り、そこに小さい精巧なものを収めています。小さくて狭い中に見られる独特の美というものに魅了されていたようです。こういった文化が北京の戯劇に一種の"狭さ"をもたらしたのかもしれません。

 そう考えると、シルクロードの交易で財を成した江南地方の楽器がやはり狭い音域を持っていたことは理解できます。そして経済力が衰退するに従って、弦楽器は徐々に大きくなっていきました。広東人は二胡を見た時に大き過ぎて使えないと思ったようで、これを小型に改良しなおして高胡を開発しました。広東や香港も昔から現代まで裕福な地域です。そしてやはり高胡も広い音域は使いません。高胡も京胡も広い音域は使おうと思えば使えますので新しい作品では使われますが、本来は使いません。

 現代では中国の拉弦楽器は器楽でも使われますので、今後、狭い音域に戻ることはないと思います。それでもこうした歴史的背景を知っていれば、古い戯劇作品を見た時に演奏上の検討材料になることがあります。