絹弦、二胡、そして中国音楽についての関連知識を本項「Q&A」で扱います。07年当初はこのような解説はネット上や書籍などでも見つからなかったので、必要とされている事柄だけを記載するものでした。それだけでもかなりの量だったからでした。淡々とただそれだけをこなしていたのですが、それでも受取手にとっては外国のものを知るということは難しいことで様々に複雑な状況があるということが後でわかってきました。小店店主はずっと大陸にいたのでこの苦労がわからなかっただけでなく直接関わることもできませんでしたが、あちこちからお話を伺うと以下のような歴史があり、このことは二胡を新たに始める方におかれても知っておかれた方がいいのではないかと思うようになったのでここに記載することに致しました。とにかく大陸関係だけでなく習い事全般というのはいろんな意味で難しく、様々な経験を経た上で日本の伝統芸能は江戸幕府の差配で閉鎖的になって現代に至っております。しかし二胡は政府などによる組織化などはなく解放されております。逆に言えばやりたい放題、そこへ大陸の全く異なる道理が入ったことで、生じた問題を見てもよく考えないとわからないような複雑な状況を呈するに至りました。最終的には閉鎖性に向かうのでしょうか。そういう方向で進めておられる先生方もおられる一方、反対もあるなど、江戸時代と変わらない状況も見られます。質を高める過程でどうしてもそういう方向になるのかもしれません。以下に記載しました既に発生した問題を考察するに、それもやむを得ないと思わせるものがあります。
開店当初、07年12月頃の小店は二胡絹弦のみを扱うショップだったので本稿の内容は絹弦に関することだけに限定されていました。最近でこそ中国でも絹弦は少し使われるようになってきていますが、この頃ではほとんど忘れられた存在だったので、どうしてもある程度の説明が必要だったからでした。聞くところによると中国絹弦の日本での販売は小店が最初ではなく、以前は他店で販売されていたものの店主の老齢で閉店したと、それから少し経って小店が販売するようになったということのようです。こういう経緯で、小店が販売し始めた頃にはすでに絹弦を使ったことのある方も一定数おられました。そしてその閉店したご老人と小店のスタイルが個人経営であることなど共通点があったので、小店の店主もとうに定年を過ぎた有閑階級と勘違いされ、気軽に質問する皆さんの攻勢を受けることになってしまいました。開店当初はご質問の回答に丸一日を要す程で、ついに観念してコンテンツを絹弦以外にも徹夜で拡大せざるを得なくなりました。これでようやく送られてくるご質問は激減して一息つけました。さらに皆さんからの要望で「これも扱え、あれも扱え」というご指示をそのまま伺っていましたら、いつの間にか現在のような品揃えになりました。
本稿の08年頃の内容は当時の需要を満たしていましたが、書いている店主も07年9月に大陸で二胡を初めて見た人だったので、しかし楽器街に住んでいたので中国人の先生方に聞いての回答でしたから内容は問題なかったものの、もう一つわかっていない人が答えている感がありました。それでも当時はそういう情報が全くなかったので役にはたっていました。皆さんも中国に対しいろんな事柄から不快感、不信感を抱かれることもあると思いますが、店主は北京に行ったばかりでわからないことも多く、なにより現地に住んでいたので皆さんとは比較にならないぐらい苛立っていました。既に海外渡航歴30カ国を超えていましたが、こんなのは初めてでした。それでおそらく初期の記載はそういう苛立ちの面が感じられる部分もありました。このことが間も無く意外な問題を生むことになりました。
その頃日本では当時、スキマ産業なる概念が出てきて、当時サラリーマンはどこも副業は禁止でしたが、そういうのには従わない、いわゆる"賢い"人材が小さな成功を掴み同僚に差をつけるなどというようなことが週刊誌のネタになったりしていました。そこで一部の人が中国のいい加減さに目をつけ、そこへ何とか入り込めないかと考えた時に、本稿が大きなヒントを与えてしまい、同じことをやれば自分も先生になれると考えた人が急に増えました。「あなたのやっているのを見てやり方がわかった。これだったら自分でもできる。同じことをやっても良いか」という確認メールを幾つも受け取りました。これは不思議な話で、ネットでコンテンツを提供するのに小店の許可が果たして必要でしょうか。「好きにやれば?」と答えていました。こちらは中国の先生方に教えてもらってやっと答えているのに「これだったら自分もできる」とは、一体この人たちは何なのだろうとも思っていました。無礼だという認識もないようでした。そういう所謂"知識人"がどうして小店に許可を求めてくるのかも謎でした。しかし理由は間もなくわかりました。彼らのコンテンツに問題があって第三者からクレームがきた時に「弦堂が許可を出している」と回答して逃れ、その後小店にクレームが来るようになったからでした。小店からは「その方は存じ上げません」と答えていました。いい加減なことを言っているわけですから、個人のメルアドとネットのコンテンツは紐付けしていないので当然です。それでうちに連絡があった方がどこに記事を出しているのかまでは全くわからなかったのです。この人たちが行ったのはほとんどがブログでした。従って情報を提供していただけだったのですが、もしかするとそういう方法で生徒を集めていたのかもしれません。こういうものは弦堂以前にはほとんどなく、突然急に増えたような状況でした。そしてそれらの多くは共通点がありました。堂々と批判調で教祖のように語るというスタイルでした。そういうものが多く出たということは誰か個人に問題があるのではなく、大元にあった本稿のコンテンツに病的な何かがあったということを意味していました。しかし自分で自分のものを読み返すに、そういう要素は見つかりませんでした。ただ中国に対しても間違ったものをはっきり指摘するというのはありました。必要なものもあるとは思いますが、極力そういうものを省くようにしたので、今ではほとんど残っておりません(一部残っていますが、そのページはそれほど重要なことは書いていないのにアクセスが非常に多いです。こういう人々の動きを観察するに、どうして週刊誌というものが売れるのかわかる気がします)。アリストテレス曰く「誰でも怒ることはできる、それは簡単なことだ。しかし、正しい人に、正しい程度に、正しい時に、正しい目的、正しい方法で怒ること、それは簡単ではない」のです。ブログの人々は、しばしの"言論の自由"時代を謳歌された後、10年4月頃に出てきた光舜堂ブログに困惑するようになり、自分たちの記述の誤りが晒されたことに耐えられなくなって急速に淘汰されていきました。小店は「光舜堂をやっつけて下さい」という嘆願も多数受け取っておりました。アリストテレス曰く「悪は人々を一致させる」のです。しかし当時の大陸のネット回線状況は劣悪で光舜堂だけでなく、その他の多数のブログは閲覧が困難でした。「帰国したら見せて貰いますよ」と答えたことは何度もあります。そのため小店は"自由な言論"そのものにほとんど接することもなく、状況を人づてに聞いていただけでした。この事情を知らない日本の皆さんは弦堂が他者の意見に対し賛否を表明しない良い人だと勘違いしていた節もありました。帰国時に光舜堂ブログ見せていただくとこれは良い内容だと、他とは違うと考えるようになっておりました。一方で教祖様たちはブログを閉鎖しなくてもいいだろうと、これぐらいのハングリー精神は必要だとも思っていて、彼らの撤退にはあまりよく思っていませんでした。だけど今から考えると、純粋に自分を売り込む目的だけでブログが書かれていれば、その立場上、信憑性が少しでも傷つけられた時に耐えられないのはよくわかります。それで令和ぐらいには、それなりのまともなコンテンツしか生き残っていない状況になっています。しかし光舜堂ブログは普通に読めば何も批判的な内容ではありません。ただ「真実はこうだ」と言っているに過ぎません。以前の自由な言論は既に無くなっているのでどういうダメージを受けたのかわかりませんが、正直、これぐらいで閉鎖になるぐらい打撃を受けているようでは、はっきり言って申し訳ないですが「豆腐」だなと思いますね。このようなコンテンツを弦堂が支持していると思っておられる方がまだ結構多いようなのでここではっきり言わせていただきました。支持はしていませんがいろんな情報が出てくるのは結構だと思っているので、やっぱり支持しているのかもしれません。しかしこういうものはグルメサイトのレビューと一緒で、最初は影響力を持つが、そのうち信用崩壊します。グルメのようにポータルサイトで一本化されていないし、そこまで業界が大きくないので公正取引委員会が介入してくるようなことはないでしょうが、問題の本質はほとんど同じです。自由な言論というものは最終的に不自由に行き着きます。そして有識者だけで構成された閉鎖性へ向かいます。
ネットの利用者はいろんな人がいます。裏読みのコツがわかると今尚利用価値はありますが、本当に良いものは紹介すらされていないことはしばしばあります。有名になってしまうと質が下がることが多いですが、そのために紹介を一切断るようなところもあるからです。一方でネットのレビューには一定の信用性もあることも確かです。混沌とした状況であるが、"混沌"というと、そう、西の真っ赤なあの国を思い起こさせます。実際に主導しているのは彼らであることが明らかになって報道もされており、本人らも認めています。何故なら彼らのロジックでは正しいことだから。これはしょうがないです、世の中はそういうところだから。騙されてついて行けば自分も同罪です。類は類を呼ぶから。自分が幾ら被害者だと主張しても、周りから見ると普通に馬鹿なのです。他人のせいにしているから何度でも引っかかる、これぐらいの姿勢で物事に臨むべきです。博打でも一旦張ったら全て自分の責任、同じことです。負けてはいけないとは言わない、しかしそこから進歩しないなら、それこそ本当の敗北でしょう。
最近教えて頂いたのは、光舜堂がブログのどこかに千斤の位置を決めるのに肘を使って長さを測ることを強く否定しているというもので、ところが弦堂には、そのやり方を写真付きで解説しているのは、どちらが正しいのか?という問い合わせでした。これは良い質問です。そこでこのように回答しました。光舜堂は製作家だから、楽器を最良の状態で使ってもらいたいと考えている、だから適当に肘などを使って演奏者が自分中心に位置決めするのは許せないだろう。だけど演奏者の方では千斤がどこだろうと関係ない人はいるし、まず手の幅が合うことを優先したい人もいる。また、弦の設計値もあるので、そこを中心に決めたい人もいる。というような話をしました。古楽器を扱う人はあまりにも様々な楽器があるので絶対的な基準として肘を使います。しかし肘を使っておきながら、それに合わせて千斤の位置を決めません。楽器を見て、その兼ね合いで標準の位置から上下させることもあります。いろんな状況があり得ます。そもそも光舜堂は肘を使うことそのものを否定するというよりは、そういうやり方を採る姿勢や考え方に疑問を呈しているわけで決して間違ったことを言ってはいません。むしろ製作者サイドには我々としては光舜堂のように言って貰いたい、それぐらいの熱意で作って欲しいと思っています。悪いように言えば偏った、良く言えば専門的な見地の製作側からの主張が欲しいのです。名工がこういう性質なのは光舜堂だけではありません。大陸の王小迪、呂建華、胡涵柔、馬乾元その他、誰もが非常にはっきりと強く主張、しかも世間で言われていることと違うことを平然と言ったりすることさえあります。製作側に偏った踏み込んだことを言います。弦堂店主は彼らから一喝を食らうのに慣れており、それどころか「はい、待ってました」とばかりに色々聞いたりするぐらいです。しかし普通一般には「製作家は気難しい」で片付けられます。
長く二胡を嗜んでおられる方々におかれては"豆腐"に醤油や生姜を加えずにそのまんま食べ過ぎたとかいろんな苦しみがあって「一体、何が正しいのだろう」と思うあまり、100%の情報を探そうとします。新しい方も同じだと思います。かつての教祖様たちも、もしかするとここを読んでいるかもしれないので、まず彼らの弁護をしましょう。あの当時はネットはアングラでした。弦堂も開店したら知り合いから「お前はいつから悪人になったのか」と言われておりました。ところが話をするとまともなので「頭がそういう御花畑状態でやっていけるわけがないだろう。どういう世界かわかっているのか」と言われていました。現代では考えられません。そういうことで当時は、ネットだからという理由でハッタリをかますのはすべてある意味合法でした。無法地帯なのだから。いい加減なことを書いても問題ありませんでした。活躍すれば英雄でした。手法は関係ありませんでした。むしろまともなことをやっていたらアホでした。ですから、当時はそういう時代だったのです。しょうがない、今更批判するのは気の毒でしょう。だけどネットに対するダークな印象だけは残り香のように漂っていて、そのことが完璧な情報を探し出すという姿勢に現れてくることがあります。この姿勢は問題があります。
時々どこかの教祖様が弦堂の記載が誤りだとブログ上で批判することがありました。上述した理由で小店は読んでいないので、幾人かの熱心な方々がメールを下さり「あなたは間違っているのではないか」と知らせることもありました。しかしそのいずれもが、少し自分でやったら答えがわかるような特に重要でもないようなものでした。批判までもが薄っぺらいとは、ある意味衝撃を受けたりしたものです。弦堂内のコンテンツは年間何十回も細かい修正がなされており、そのためにブログを使わない程ですが、ということは問題点はないわけではない、しかし明らかにそこではないだろうという単純にわかる部分に間違っていると突っ込まれると「他にはなかったのか?」と思って絶句するしかありません。この人たちは何なのだろうと。「あなたは自分で確認していませんね? 1分以内、いや10秒もあれば実行して確認すれば、何が正しいのかわかるはずです。メール打ってくる暇があったら、その時間でもう真実は見つかっとるでしょう」といつも答えていました。つまり、彼らは誰も実行せず、脳内の理論だけで語っていました。人間というものはどうしてもこうなります。楽ですから。頭でわかっているのと実行できるのは10倍違うという認識が必要です。世の中の正論で間違っているものはたくさんあります。何事も自分で確認しなければなりません。「信用できる誰かが・・言った」ではいけません。そういうことを言っているようだから彷徨います。きちんと身につけていれば、弦堂と光舜堂の書いてあることが真っ向から違っても理解できるし、すべての事柄がすべて100%当てはまるわけではないということもわかるでしょう。こういうことは人任せでは死ぬまでわかりません。光舜堂ブログ内に限定しても、場所によっては違うことが書いてあっても両方理解できます。安全地帯に立って上から物を見ているようではそこはわからないです。既に実行している読み手という前提で書かれているから、その前提に立っていないと話が通じません。我々は日本語にはそれなりに自信があります。しかしテレビ広告を見ると、確かに言っていることそのものは分かる、だが実際のところ何が言いたいのかはわからないということがあります。見込み客にだけわからせればいいから、我々のような門外漢には理解させなくても良いということなのでしょう。これと同じ状況があり得るということです。我々は化粧品の広告を見て「ああ、これを買えば美しくなるということなのだな」と思って理解したつもりになります。しかしそれだと去年と今年は大して変わらないということになります。分かる人にしかわからないメッセージが含まれている筈です。時代に即した心を掴むキラーコンテンツが含まれている筈です。そしてそれは去年にイメージされていたものからは確実にアップデートされている筈です。しかし我々がそれを見出すことは一生ないのでしょう。そういう意味でああいうものは全くわかりません。キャッチコピーを聞いても全く何の感情も起きません(女性はこういうめんどくさい文は読まないと思うので想定していない前提で失礼します)。お友達が「あそこにこう書いてあった」と言っても必ず自分で確認しなければなりません。180度逆のことが書いてあることもしばしばあります。自分自身すらも信用してはなりません。ユリウス・カエサルによると人は「信じたいものを信じる」から。本当のことから目を背けるのは人の性なのです。また人の思考には死角があるものです。升田幸三のような天才すら「錯覚いけない、よく見るよろし」と自戒したのは有名です。
場合によっては、弦堂も光舜堂と同じことを言い出し「肘を使うとはどういうことか!」と大きく出ておきながら、別ページでは肘を使う方法を写真入りで解説しているという状況が発生しないとは限りません。弦堂は古楽器奏者なのでその可能性は低いですが、別の内容でそういうことが発生する可能性は否定できません。どうしてそういう矛盾がまかり通るのでしょうか。中国音楽は中国語ができるかどうかで情報量の絶対値が違います。歴史も長いので大陸では多くの理論が集約されている一方、新理論もあります。いろんな人がいろんなことを言っています。世の中の意見とは明らかに違う独自の見解を「これが絶対に正しい」と唾を飛ばしながら力説するお父さん方も元気にしていらっしゃいます。混乱しますか? 誰が混乱するのですか? 初心者です。アリストテレス曰く「若者は簡単に騙される。何故なら、すぐに信じるからだ」。だけど先生はわかっているので問題になったりしません。多くの様々な考えに接することで物事の本質がわかるし、改善進歩もするので大いに歓迎されています。変な意見でも全く問題ありません。大陸にはそこにクレームを入れる人はいません。むしろ楽しんでいます。日本はそういう状況ではありません。それで特定の一人の人が、表面的には明らかに相反する2つ以上の内容をすべて述べて提供する、サービスが良すぎて混乱する人が出ます。「何が正しいのか?」と。しかしそういう人に対して提供側は「あなたやってないでしょ?」と必ず思います。アリストテレス曰く「何かを学ぶとき、実際にそれを行なうことによって我々は学ぶ」のです。だけどそんなことを言われても、周りでやっている人が多かったりすれば馴染むのでしょうけれども、全くのゼロだったらスタートラインに立つのも大変なことです。であれば問題は、情報が正しいかどうかは関係ありません。正しかろうとも間違っておろうとも、どっちでもできません。なので、何にもわかりません。イライラして「100%確実なものだけ出してくれ」と言いますが、そういうものがあってもできません。それで環境の重要性は強調してもし過ぎることはありません。周りがプロばかりであれば、あなたは四六時中、鼻くそをほじくっていても物事がわかります。しかし無人島におれば、指が摩耗してくるぐらい死に物狂いで努力してもよくわかりません。それで誠実な情報提供者は、本気で世間のためを考えていればいるほど、いろんなことを言って情報でジャブジャブにします。環境が重要だから。
擦弦楽器は弓の扱いが難しいものです。初心者に教えるような単なる弓の持ち方のような方法はどこも変わりませんが、それ以上の専門家に達する段階では先生方の中でも様々な理論があり、教室毎に教えていることが違うとか独自の理論が発生しやすい分野です。正しい情報をどのように探せば良いのでしょうか。野茂英雄という人がボールを投げたところを見られた方はおられますか。あの投げ方は基本に忠実ですか。プロとして相応しいですか。あのような投げ方の子供がいたらどう判断される可能性があるでしょうか。実際、暴投も決して少なくないのです。そう考えると彼を育てた指導者たちは凄い人たちです。プロになるためにいわゆる"正しい"投げ方を教えずに彼を大リーグにまで送り込みました。同じようなことは音楽院でもあります。"優れた教師"から弓の扱い方のフォームを改造されて消えていった幼い天才バイオリニストは少なくありません。過去にいろいろなことがあって、その結果としておそらく最も正しいのはある意味「教えない」ことではないかと考える老師たちがいます。しかし教師は教えるために雇われているので、教えないという選択を選ぶのは簡単なことではありません。そうであれば教えない老師が教えなくても生徒に結果を出させるというのは凄いことです。もちろん何もせず黙っていては結果は求め得ません。そこでどうすれば良いのか、そういう老師に聞いたとしてもその答えはほとんどの人を満足させるものではないでしょう。その老師が有名であればまだともかく、そうでなければ耳を傾ける人はいないでしょう。そもそもわかるぐらいであれば最初から聞かないのではないでしょうか。そのような理解困難なものに直面する可能性は誰しもあります。真実や正しい答えを求める姿勢は間違ったことではありませんが、もしそれが見つからなかった時にどうするか、あらかじめ考えておかなければならない最も重要なポイントはそこなのです。「教えない」ことが正しいと言っているわけでもありません。先日、桐子にお会いした時に教えてもらったのは、正しいフォームで演奏することは体に負担をかけないので重要だということでした。生徒さんにもそのように指導しておられました。実際、世界のプロ弦楽器奏者の腱鞘炎の割合は70%などとも言われていて、そんなに問題だったら野茂がどうとか、そういう悠長なことは言っていられない、体に負担をかけない正しいフォームを身につけなければならないということになります。何が正しいのでしょうか。もし我々が教師であって、より立派になろうとすれば、またさらに進んで第一人者にでもなろうものなら「これこそが絶対に正しい」という核心にも似た何かを欲することがあるかもしれません。だが、客観的に見ていただきたい、そういう人物は絶対に達しているので思考停止している、そしてそれを他者にも求めています。これは間違いなのでしょうか。そうとも言えません。ある程度のところで絶対を確定してしまい、次に進んだ方が建設的なこともあるからです。人の思考には限界があるので考えない判断を下すことも重要です。しかしこのような姿勢は、正しい情報を探すためパソコンの前に座ってインスタント的に結論に達しようという安易な考え方とは全く異なるものです。ではインスタントは良くないのか、いや、むしろ勧めたい、思考の限界を見ると使わずにある程度の収穫があるなら躊躇わずに簡単なもの、便利なものは使うべきです。
情報を発信する場合でも、あまり自信がない方もおられると思います。だけどそんなことは気にする必要は無いと思います。検証さえされていれば。仮にそれが間違っていたとします。別にいいんじゃないですか。自分で検証してその時にはそういう結果だったということであれば、間違っておろうが参考になります。5%でもいいんじゃないですか。そういう結果が出ることもあるらしいという風に捉えられます。天才は周囲から「ありえない。うまくいくはずがない」と幾ら言われてもそれをやがて主流に変えます。アリストテレス曰く「革命は些細なことではない。しかし些細なことから起こる」のです。ですから同じことを言われても気にする必要はありません。誠実に取り組んでさえいれば。パソコンの前に座ってジャッジするだけの人たちからは色々言われるかもしれませんが、間違った見解は来年は正しいとされているかもしれません。自分ではなく世間のために何を成すかという基準でやっていれば何の問題もない筈です。アリストテレス曰く「最大の美徳は他人の役に立てることだ」。日本には古来より「だし」というものがあります。基本的なだしの取り方は決まっていますが、絶対的な方法は見つかっていません。専門書を読むと最初のページからそういうことが書いてあります。基本を説明した後、麻布や京都の名店のだしの取り方の解説に入ります。どこも異なった方法で、ある店では好ましくないとされているやり方が他の店では採用されていたりします。また同じ店でも後継によって新たな研究が進められるなど追求は果てしないようです。そこで科学的に解析するのはどうかとなり、味の素株式会社の開発部に所属する農学博士たちが現在わかっている範囲で解説しています。いろんな旨味成分は見つかっていますが結局「わからない」そうです。昆布や鰹節が混じり合った時、1+1がどうして7にも8にもなり得るのか、これはマジックなのです。全ては不完全に見えます。今のところ実行してみればこれが手堅いという異なる理論や方法が羅列されています。ところが、全部読むと「すごくよくわかる」のです。核心は完全だから。そして日本料理にとってだしは完全なものなのです。どんな味を追求するかでだしの取り方は変わってきます。ある料理にとって相応しいだしは他では全く使えないかもしれません。もしその理由で軽視されるのであれば、それは全く物事を理解していない人によって判断されたということなのでしょう。
光舜堂は名工と書きました。これに強い疑問を抱く人が世の中にたくさんいます。それで光舜堂を訪問した時に西野社長から楽器の率直な感想が欲しいと言われました。「江戸の音がする」と即答すると周囲の光舜堂支持者の皆さんですら「はぁ?」「それはないだろう」と言ったのでニコニコして黙っていました。そして間をあけて「確かに江戸の音がする」ともう一度言いました。それ以上言いようがなかったからでした。楽器は売れるようで弦堂からの紹介を断るぐらいなのですが、それでも皆さんは「日本の楽器」という認識はないようでした。日本人だからわからないのでしょう。外国人は何か感じるものがあるはずです。光舜堂の方でアンケートを取られた結果、中国人の先生方からは「南方の音がする」「北の音がする」「二胡の音ではない」「古い二胡の音がする」などのご意見があってバラバラだったようです。これは全部合っています。矛盾するのに合っているのか? とにかく先に進みましょう。それからしばらくして、チェンミンさんに神宮前の教室の見学に呼んでいただいて、生徒さんと一緒に三六を演奏して下さいました。その時にチェンミンさんは光舜堂中胡で低音をいれていました。実に美しい音でした。「これは? もしや鈴木雅明なのか?」と思ったので、そこを出たら徒歩で渋谷のタワーレコードに向かい、7階に上がるとさすが鈴木雅明、ヒットチャートに上昇、新譜の視聴もできます。聴いて「やっぱりこれだな」と思ったものです。彼は東京芸大の古楽科の設立者で、現在は古楽器の楽団を率いています。彼の楽団の低音はビオラ・ダ・ガンバやバロック・チェロが使われています。彼自身はオルガン奏者です。教会オルガンは巨大なのでブーブー低音が出ます。楽団においてもオルガンの響きを彷彿とさせる特徴的な低音が彼の持ち味です。非常に味わい深い音です。もしかして日本の低音を極めるといずれもこうなるのか、もし鈴木雅明が光舜堂中胡を見ると気にいるのは間違い無いでしょう。買いそうです。そして西野社長もチェロ奏者です。光舜堂中胡は中胡故に持っておられる方は少ないと思いますが、大事にしていただきたいですね。間違いなく価値があります。比較できるのは馬乾元ぐらいではないでしょうか。だけど大陸のは大陸の音だから、確かにこれも抗しがたい魅力がありますが、日本の音も何とも言い難い魅力があります。ところで日本の音で中国音楽をやるのは相応しいのでしょうか。日本の音とは何なのでしょうか。古代中国の化石です。古楽器とも違います。古楽器はせいぜい100年ほどでしょうけれども、日本の音はもっと深くもっと古いものです。中国の専門家が和楽器の音を聴くと失われた音が見つかったと感じるようです。ですから現代中国の演奏家が光舜堂の楽器を求めるのも不思議なことではありません。しかし中国人二胡奏者は日本の音をはっきりと理解していない場合が多いです。その状態で光舜堂の二胡を観ると何物にも見えてしまう、万華鏡を見るようなよくわからない感覚に捉われる筈です。二胡の音ではないが大陸の音だと思ってしまいます。古代の音だと言えば、おそらく彼らは「なるほど」と言うでしょう。古代の音でベースラインを支えた調和は美しいものです。西野社長は古楽器にも興味をもっておられ、その方向に進まれる考えをお持ちですが、弦堂の方からは「あの中胡は変えなくてもいいかも」とお話ししました。二胡についても既に完成されたものであるので、後に古楽器が出てくるとしてもこれまでのものが否定されるものではない、それぞれ別個に評価されるだろうとも言いました。日本製の二胡について、どう捉えていいのかわからないというご質問が多いのでこれで回答とさせていただきたい、最初は諸外国のものに惹きつけられるがやがて国に帰る、全てについて言えるでしょう。既に光舜堂のものを持っておられる方は大事にしていただきたいですね。博物館に収蔵される程の価値がある、しかし天皇家には呂建華が納入されているらしい、結構です、ですが呂建華さんには申し訳ないですが、光舜堂の方が日本の皇室には相応しいでしょうね。
西野社長は数百年続く材木商の当主で日本を代表するデザイナーでもあります。しかし一部の中国人老師は光舜堂二胡の材料が偽だと言います。正しいのでしょう。日中で材木の表記が違いますので。どういうことなのでしょうか。老紅木なる木材は存在していないのは既に多くの方がご存知でしょう。向こうでは黒っぽいのはいずれも「黒檀」になっていることもご存知と思います。弦堂では中国の基準に従っています。光舜堂は違うので正確な表記になっています。それで光舜堂は誤りです。おいおい、めちゃくちゃじゃないかと思われたあなたは骨の髄までニッポン人です。どういう道理でチャイナが正しいとなるのでしょうか。皆さん、世界の貴重な熱帯雨林がどれほどの速度で消えているのかご存知ですか。良材はどれほど貴重になっていますか。大きくグローバルに物事を捉えた場合、いささかの曖昧さを含めることによってお茶を濁すことは必要なのでしょうか。中国はメンツを重視、体面を保つことを評価します。いろんな材を使っていかねばならない、体面が重要なんです。それでも良材はますます貴重になり、ついに印度紫檀は国際取引が難しくなってきています。そういう状況下で材の正確さを強調していくのですか。光舜堂はバッドマンです。それで「光舜堂はハッタリ野郎」とのレッテルを貼ることは英雄的行為でしょうか。約14億人ぐらいが支持するのでしょうか。「しょうがないな」と思ったあなたは脳みそが既に真っ赤な西からの風で焼けてきてます。「ニッポン人で良かった」と思うかもしれない。だが、このロジックを理解しなければ、あなたは中国音楽の理解に苦しむでしょう。どちらかの肩を持てと言っているわけではないのです。脳みそも焼かなくてもいい、違和感なく理解できることは意外と重要なのです。大きく捉えて小さなものを切り捨てます。ニッポン人はできない「小日本」と謗られるのです(大陸では野蛮人か、かなり教養のある人物が「小日本」なる軽蔑した単語を使います。一般の健全な人民はそういうことは言いません。それでもこれには一理あるのは確かです)。事実、島国人の思考は狭いです。全然違うので中国文化を島人が理解するのは苦労します。呂建華の老紅木を見て西野社長が「ブラジリアンローズウッドですね」と言います。弦堂「呂建華はこれを老紅木にしているんですよ」。そこで西野社長はローズウッドを専門に扱っている人物を呼び、彼も「これはブラジリアンで間違いございません」。一方、大陸では地球の反対側の木なんてよくわかりません。それで弦堂あたりが見ると「黄花梨に近いがちょっと違う」、呂建華「花梨じゃない、老紅木だ」、そこで鳴らすと「黄花梨と同じではないか」呂建華「老紅木だと言っているだろう」とこうなります。事実、木目の見る箇所によっては見分けがつきません。だけど花梨ではないのです。呂建華「黄花梨は要らない。これで十分」。わかっていないわけではありません。「どこの材ですか?」と聞くと「アマゾンの紫檀だ。上海まで取りに行って大変だった」と答えるからです。ということは別に隠しているわけでもありません。ローズウッドは紫檀です。黄花梨は老紅木の最高峰です。日本では紫檀になり、中国では老紅木です。どっちが正しいのかと言われたら中国を支持したい、音が老紅木だから。見た目も老紅木だから。なぜならそうしないと音色の観点から混乱が生じるのです。しかし植物学上の分類ではおかしいのです。概念自体が、物事の掴み方が違うことがわかります。結局、材料ではなく音が欲しいので、極めて現実主義の大陸では最終回答でバッサリ判断する一方、夢をみる島では物を大事にします。やっぱり「ニッポン人で良かった」かもしれない。中国人で物を粗末にする人間は多いです。しょうがないです、陸続きで侵略の多かった大陸で物を大事にしてもしょうがないから。島人は物を蒐集します。その大本山が大英博物館です。中国人研究者も正倉院に来て古い中国の物を研究します。西野社長「これはローズウッドですから紫檀であります」チャイナ「老紅木を紫檀と騙して売っている」・・もうどっちでもいいです。皆さんも物事が明るくなられたら、両方OKになります。あまりに木材毎に分けて煩雑になると、顧客の方でも面倒になります。大陸では集約されてわかりやすくなっています。顧客に対しいい加減なタグでごまかしているわけではありません。そもそも大陸の顧客はごまかせる相手ではありません。お互いわかっている上で、これまでの経験から例えば「老紅木」とか、そのようにまとめた方が良いとなっています。音のカテゴリが老紅木だと、そういう意味です。しかし日本では植物学的に細かく分かれていても問題はないです。いろんな材があって夢がある、そこで大陸はキビキビと交通整理です。デリカシーがない、などと言われたりもしますが、よくわかってくると本来はそうではなかったこともわかってきます。本物は単純化すると言われます。元素があるべき位置に結合調和したような完美なものに憧憬を抱くのが大陸人です。この発想は島にはない、この思考パターンの違いを理解する必要があります。
二胡に絹弦を使う場合と金属弦は、演奏者の観点からは機能的には材料が違うだけで同じもの、大きな違いがないことから、絹弦の項であっても金属弦使用者の方々に参考になる部分がある筈です。扱い方に大きな違いはありません。しかし当然ながら、スチール弦を張れない方には絹弦も張れません。それから様々なところで話を聞いて後でわかったことですが、メンタリティが低い人には絹弦は扱えません。絹弦は難しいと思っている人には扱えません。同じく、スチール弦も難しいと思っている人が使うと鳴りません。絹弦はスチール弦とは全く違うと考えている人にも難しいです。違うのは間違いないにも関わらず、なぜか「違う」と考える人には扱えません。不思議なことです。思うに、絹弦だからと言って違う音を出そうとするからおかしくなるのではないかと思います。文革期に蒋風之がスチール弦を開発しました。蒋風之は絹弦とは違うものを作ろうとしたのでしょうか。それはないでしょう。絹弦と同じ音が出るものをスチールで作ろうとしたに違いありません。或いは少なくとも絹弦を模範に開発した筈です。だから普通に考えたらそれほど違わないものの筈なのですが、人間は見た目に影響されます。そういう人が違うものを期待して使えば難しいでしょう。普通こういう場合の姿勢としては違いではなく共通点の方を探すものです。最初からスチール弦とは違ったアプローチで臨もうとする人は性格に問題があります。真っ直ぐ育っておられません。落ち着きもありません。考えず、物の外見で判断しています。心配ありません。99%以上はこういう人です。人間は見た目に大きく影響されます。西野社長とチェンミンさんは絹弦を使う時は千斤を上げなければならない、42cmぐらいが良いと考えているようです。それに対して弦堂は「そんなに上げると早く切れてしまう。設計値は39cmだから」と言い、この会話を横で直に聞かれた方も結構おられるでしょう。42cmを否定したわけではありません。構わないと思います。だけど39cmで普通に演奏できる人は少ない筈です。42cmまでテンションを高めるとスチール弦と同じように演奏できるのでその方が馴染む人が多い筈です。音色も少し硬くなってスチールの質感に近づきます。このように違うものだと考えるのではなく、同じものとして音色や使用感まで近づける人もいます。こういう方々は使えます。きちんと物を真っ直ぐ見て考えて使うとこういう姿勢になります。実を言うと弦堂自身も最初は千斤を上げていて、このことはご両名にはまだ話していません。39cmだと美しく鳴らすのは難しいのでしょうか。そうかもしれません。指の腹を使って演奏せねばならないからです。弦堂はこれを誰かに教えてもらったわけではありません。美しく響く指の当てるポイントを探して見出したものです。しかも今は普段から37cmあたりまで緩めています。誤りでしょうか。もし間違っているなら、漢宮秋月はどうするのでしょうか。弦をダブダブに緩めて演奏するのです。弦堂は大陸にいたから演奏できるのでしょうか。そんなわけがない、周りは誰も絹弦など使ってはいなかったからです。他の人は緩めたら演奏できないのでしょうか。それもない、その音色が趣味ではないというただそれだけなのではないかと思います。好みの違いで判断が変わるのであれば、何が正しいかを確定することは難しくなります。同じく、スチール弦に対する判断も変わってくるでしょう。考え方によって42cm、或いは37cm、他のどこにするにしてもまずは設計値の39cmを鳴らせなければ、そしてその位置での相応しい響きが理解できなければいけません。
本稿に書いてありますことは複雑な内容もあって素人向けでないものも結構あります。徐々に学んだ方が良いことも思い切って書いてあります。外国のこういったものはなかなか学びにくい背景もあるのでどのように受け取られるか問題がありながらもやむなく書いてあるものもあります。この書くか書かないかといったさじ加減にはいつも注意を払っていますが、誰でも読めるところに書いてある以上、誤解による問題発生は避けられません。特に学び始めたばかりの方が驚くような情報に接すると都合の良いところだけ抜き取って解釈してしまいがちですから、そういう状況への配慮が必要です。混乱があった時に一部が削除されての情報減少は幾度も経て現在に至っています。すでにいろいろ知っているとバランスを取って情報を咀嚼できますので段階を経た上で学ぶということが必要ですが、一旦ネットで何かを貼ってしまうとその辺りは配慮できません。これはネットによる一方通行の限界を示すものでしょうね。それで皆様におかれましては、そういう問題点があるということで注意してご覧下さい。そもそもこの種の事柄をネットで勉強する、しかも販売店のサイトで学ぶという行為自体に問題があります。本来は販売店も製作家と同じぐらい偏った意見は言いたいものだし、普通はそういうものです。販売店の販売ありきの発言をまともに聞くのですか? 皆さんはそういうところに来てまともなことを学ぼうとしておられる、止むを得ない、そこで小店としてはかなり気を遣ってコンテンツを提供するようにしています。例えば「豆腐」とか言いたいことを好き放題に言っているようで、内容に関しては実はナーバスと言える程に気を遣っているのは間違いないところです。
十分理解したつもりになって各販売店の商品にクレームをつけるといった行為は特に謹んで下さい。二胡関係の物品は日本人仕様にはなっていませんが、そういった相違の99.9%以上は日本人の方がおかしいということを知っておいて下さい。日本人は中国から学ぶ気はほとんどありませんが、中国人は日本から学びたがっています。そこに付け込むと妙な日本仕様になってしまい、実際それで悪くなったと感じられることがあったりもします。それで弦堂では皆様の商品に関するご要望はほとんど工房に伝えていません(もちろん正当なものは伝えますが、伝えない場合でも弦堂の方から皆さんに反論させていただいていますので理に適っていれば伝えることになると思います)。かつてジョッブズが「顧客の意見は聞かなくていい。彼らの考えるさらに上のものを提供するべきだ」と言ったと言われていますが、中国楽器の製品はすでに日本人の考える上を行っているので全く同じことが言えます。もし理解不能なものに接した時に「これは何かあるのでは?」という疑問を持っていただきたいと思います。中国からのものは長年の経験が土台になって作られています。もちろん中国人も考えて作っていますが、それよりも結果が全てなので、道理には合わなくてもやってみたら良いやり方になっているものもあります。そのため、綿密な思考が経験に劣るという状況が発生し得ます。
光舜堂に「二胡の救急箱」という本があります。二胡のメンテの方法を解説するものです。これを初めて見た時、絶句しました。なんでこんなものが存在しているのかと。しかし本そのものにはネガティブな気持ちはなく、むしろ買って帰った程です。しかし1回目は絶句したまま帰ってしまい、2回目で購入しました。光舜堂は修理などで多くの方に接しているのでこれが必要だと思われて出版されたのだと思います。ですからそれはポジティブなことです。しかしこれを出版させた一般の皆さん方はどうなっているのかと普通はそういう風に考えます。中国にはこんなものはありません。二胡は複雑な構造の楽器ではありません。扱い方の解説本など必要ではないし、老師も教えたりしません。しかし初心者には難しいものです。それで弦堂は毎度習いに行く時に、調子の悪い楽器を選んで持ち込んでいました。現場に到着するとそれを平然と鳴らすわけですが老師が「何だお前の楽器は?」とクレームをつけ「よこせ」と言いますので渡します。作業をじっくり眺めます。すぐに修正して戻してきます。そうやってそのうちわかってきます。しかしそれを系統立てて説明するのは相当な蓄積が必要なので光舜堂以外にはなかなかできないでしょう。そこまで徹底してやらなくてもそれなりでも十分ですので必要もありません。そこを本を読んで自分でやらねばならないとは、皆さんの老師は何をしているのかとこうなるわけです。そこで聞きますと、多くの老師は生徒の楽器に触らないようにしているようです。もし何かあった場合、例えば既に壊れていたものを先生のせいにしたり、古い弦が切れようものなら弁償を求めるなど、そういう例が多かったので、どの先生も何もしなくなったということでした。恐ろしい話です。その結果、楽器の扱い方さえもわからない、調子が明らかに悪くても周りからほって置かれるということが普通になり、それを光舜堂が救済せねばならなかったということなのでしょう。あまりにも基本的なトラブルまで持ち込むので本を出して自分でもできるようにしたと、そういうことだと思います。恥ずかしいことだと思っていただきたい、しかしそれにしても「救急箱」は良い本です。ここまで丁寧に解説している本は今後は出ないでしょう。またほぉさんによるイラストも素晴らしいものです。中国は平然とクレーマーを追い出しますが、日本はそういう薄情な文化ではありません。明確な態度を取るよりもみんなで被害を共有します。おかしなことです。問題を起こす人は治らないのでビジネス書などを見ると「社内から追い出すしかありません。あなたはリーダーとして速やかに行動するべきです」などとどこを読んでも書いてあります。組織を健全化しようとすればそうするしかない、問題のある人を容認する程の時間や手間、コストを負担し、本来やるべきことを脇に置くのはおかしいことです。精神科からも見放されているのだから。それぐらい毅然と行動しないと問題のある人も進歩しませんから全てが悪くなります。それなのになぜか真面目な人の方は追い出されやすいというおかしな現象も少なくありません。全体として高い意識を持ってこなかったことで「二胡の救急箱」に繋がったことが見た瞬間にわかったので絶句したのです。そして問題を聞いてもっと驚いた、皆さんにはご自身が本当に相応しい環境に身を置いていらっしゃるのか真剣に考えていただきたい、誠実に努力している老師も少なくないと思うのでそういう人を評価せねばならないという意思を持っていただきたいものです。
いろんな事柄を解決するための方法はコンテンツ提供において常に考えています。皆さんの方でもいろんなものを蓄積する過程で、すべてのものを50%ぐらいで吸収するようにして下さい。アリストテレス曰く「受け入れずして思想をたしなむことができれば、それが教育された精神の証である」のです。芸術関係のものは特に100%か0%のもの、絶対はほとんど存在していません。白か黒ではない、頭の中が二極化していて硬かったら芸術関係はほとんど理解できません。音程は100%確定したものに見えますが、これすらも実はそうではありません。こういう前提だとこうなるかもしれない、という曖昧なものが多数存在します。すべては参考値として提示されます。80%ぐらい重みのある影響力のある論理が、研究が進むに連れて30%ぐらいの比重に急落することもあります。だけど30%もあればまだまだ軽視できません。重視するという程でもありません。バランス感覚が必要で、完全ならあるが完璧はないのが芸術の世界です。完璧は子供でもわかるが、完全の理解はインテリジェンスが求められます。すべての重みは浮動するものであるという前提で掴んでおくべきでしょう。楽譜には忠実でなければならないと言われます。しかし20世紀の偉大な巨匠たちの演奏はミスが多いです。どっちが正しいのでしょうか。そもそもこの2つは全く矛盾していません。楽譜に忠実とはどういうことなのでしょうか。正しく音符を押えれば忠実なのでしょうか。それで満足するのであれば、それは偽りの忠実でしょう。なぜそこにその音が書き込まれているのか、その意味を明らかにすることこそが本当の意味での忠実なのです。だから巨匠たちの演奏はミスが多かろうとも忠実な演奏なのです。配偶者があなたを罵しろうとも愛は疑いないかもしれないみたいな極めて泥臭い話なのです。そっちに行ったらヤバイだろうと思うぐらいの演奏でも愛が溢れていれば、その演奏は不滅と見なされることさえあります。正しい向き合い方なるものは目安であって、絶対ではないことはしばしばです。だからと言って軽視し、これまで過去の人によって蓄積されてきたものを好き嫌いで選別するのもよくありません。柔軟に何でも嗜好せねばなりません。最低限、少なくとも義務教育は受けている程度の思考能力があればこのようなことは当たり前だと思うので、わざわざこういうところに記載するのもおかしいぐらいですから、皆さんが100%論に加わっていたなら「何でこうなったのだろう」と思う方もおられると思います。それは教祖集団が出てきてから始まったことでした。皆さんはいいように毒された、こういうことをここまで具体的に発言するのもどうかと思うし、一応小店も普通の町人である上、販売者ですからね、極力発言したくありませんから以前はもう少し婉曲な表現で本欄ももっと短い文が掲載されていました。全く効果なしということが判明しましたので「教祖は豆腐」を中心にして「見たくないものを見ない」人々にも明確にわかるように発言させていただいた次第で、たいへん遺憾に思っておるところです。教祖の方々も後に真面目になった方もおられますが、まだ不満を抱いて何とか反撃の糸口を掴もうとしている不毛な人々もおります。しかしこういう人はどこの業界でもいます。人類とはこういうものなのかもしれない。そして攻撃されているところは本物です。中途半端だと攻撃する価値がないわけですから当然のことです。光舜堂のように色々言われているところは凄いということです。教祖さまたちも教祖的にガチだからそういう意味では本物でしょう。その点、弦堂はかなり足りていない、批判を受ける程度の仕事はしていないことになるでしょう。弦堂は名乗らないので光舜堂のほぉさんに3回目にお会いした時にこちらが弦堂だとバレたのですが、その時に彼女が最初に言ったことは「弦堂は理論武装している」でした。そのつもりはないのですが、実際批判しようと思えば言い掛かりは幾らでもつけられる訳で、それもないのは成功しているとは言い難いのは間違いありません。アンチがいない成功者はいません。「理論武装」に思い至ったということはほぉさんもかなり苦労されているのでしょう。光舜堂の場合はブログだから新しい記事で更新しますが弦堂は書き換えになりますので隙はなくなりやすいのはあるでしょう。このやり方の違いは単に個人の好みでしょう。しかし弦堂の場合、武装どころか面白かったら豆腐だろうが何だろうがすぐに言う関西系で隙だらけの暴走系(武装して暴走はしていない、むしろノーヘルで暴走なのか?)、面白かったら教祖うそ八百に対しても「君、面白いね」と発言して大歓迎、他地域の方は驚かれてリアクションに困るでしょう。これでも自重に自重を重ねて振舞っていますからね。そのうちまた、どこかのブログで「私は教祖です」と言う人も出るんじゃないですか。良くないことでしょうか・・。断じてない、面白いというのは世間の皆さんに貢献している偉大な想像力です。正当な評価が欲しい、また学び、進歩することは大変難しいことです。アリストテレス曰く「知覚することは、苦しむことだ」。
100%論が好きな方で「自分は教祖らとは関係ない」と言われる方もおられると思います。悲しいことですが、きっぱりと線を引かれたのでしょう。その方々についてまず言えるのは進歩を目指しているのは確かということです。しかし何かがどこかで行き詰っているのではないかとも感じられます。行き詰まっていないのであれば特効薬的に100%は求めないでしょう。これらのタイプの方々におかれてはおそらく上記の長文のいろいろ書いてあることはあまり関係がないと思われます。この問題について深く立ち入りたくはないですが、解決方法としてはとにかく音楽を聴くことです。しかし二胡は聴きません。大陸の動画サイトなどで戯劇も含めて二胡以外の中国音楽を聴きます。気に入ったものがあれば譜をネット上で探して二胡で演奏します。二胡は一通り巡ってから聴けばいいです。簡単ではありません。しかし一旦手がければ、弦堂がどうしてこれをやれば解決すると言っているのかがわかるでしょう。これとは別に何らかの方法で和声学も学ぶ必要があります。以下のQ&Aであるとか、光舜堂ブログなどは最重要な情報源ではありません。副教材です。うんちくで満足しているようではいけない、録音こそが主教材です。世の中に一体どれほどの録音がありますか。重要だからあるのです。最高の教材です。皆さんもうんちくはいいから、録音に進んでいただきたい。商業的でもいいし、そこまでは無理でも録音は良いことです。商業的な録音にうんざりしている人も多いから人気は出るかもしれません。人間は創造する喜びに生きます。録音で作品を作るという概念は重要です。そうでないと結果的に満足はしないでしょう。そして「二胡」というのが前面に出されているのはおそらく良くない、考えてみてください、バイオリンが前面に出されているのは売れにくいでしょう。しかしバイオリニスト自身や、ある作曲家のバイオリン曲集であれば違ってきます。結果として使ったのがバイオリンだったならOKです。二胡も同じことが言えます。聴く方の立場で考えたらわかります。人間が勝負していないといけない、そこへ楽器を前に出していてはいけません。自分にタレント性がなければ演奏者として前面に出すのは無理です。作曲作品であるとか構成曲のコンセプトを前に出した方が、タワーレコードやHMVのチャートを攻めやすいでしょう。そこまでやるのですか? それぐらいの意識は欲しいですね。二胡は無理では? そんなことはないです。ただしジャッジはかなりフェアです。世界と比較されます。彼らは良いものを紹介したい、そこへそれなりのものを出せば扱ってくれるでしょう。そのためにも「聴く」ことがいかに重要なのかわかるでしょう。何も聞いていなければ世界を知らない、他人が創造した傑作を知らずして自分も創造することはできません。「軽く言いよるな」と思われるかもしれない、わかっているんです。それでも自主制作盤を出せるようになると本当の意味で創造的に楽しめるでしょう。