二胡という楽器は元はもっと小さなもので、民国期に周少梅(1885-1938 写真右)によって改良された時に全長が伸ばされたといわれます。この周によって大型化された楽器の内弦軸は現代二胡の外弦軸の高さなので、現代の規準から見るとこれでも相当小さな楽器だったということになります。周は楽器を大型化するに留まらず、この棹の長さを利用した三把頭奏法というものを開発しました。現代で言うところの「第一~三ポジション」のことです。二胡が戯劇用の楽器だった時にはこれほどの音域を必要とはしなかったし、戯劇では第二ポジションも不要なので、それまでの作品は狭い音域で演奏するもので、また独奏用でもなかったりしたので、こうして音域が広がった新しい二胡のために新たな作品や教本を必要としていました。そのために「国楽講義」三部作が著されました。これは近代二胡のために最初に完成された教本でした。
この周少梅の活動が現代二胡の原点になります。三把頭奏法は孫文明と共同開発したと言われていますし、周から学んだ学生には劉天華(1917-22二胡と琵琶を学ぶ)、阿炳がいます。教育については劉天華が引き継ぎましたが、作曲において比較的多産だったのと対照的に出版が少なく、劉天華の業績が見える形になったのは彼の死後でした。「劉天華先生記念冊」(1933)です。これには二胡用の作品として47の練習曲と10の作曲作品が所収されていました。
劉天華は教育家だったので、大勢の弟子がいました。彼らが劉天華の仕事を引き継ぎ、その過程で教本も発展してゆきました。「記念冊」以降、最初に著された二胡教本は陈振铎(写真左)著「南胡曲選」(1935)で、これは史上始めての二胡専門曲集だったと言われています。練習曲集としては「胡琴練習譜」(1932 劉天華著)がありますが、これは現在、どのような内容だったのか明らかではありません。おそらく47の練習曲と同じものでしょう。
40年代に入りますと、もう少し出版が活発になり「怎样習奏二胡」(陈振铎著 1945)という本が出てきました。これは数曲の古曲が含まれている以外は作者の自作曲で占められていました。翌年には储师竹による「国楽」が著され、「怎样習奏二胡」が作者の作品で占められていたのと対称的に、これは幅広い作品が所収されていたという特徴がありました。俞鵬著「南胡創作曲集」(1946)は、それまで文曲で占められていた二胡作品に武曲の要素を取り入れた画期的な曲集でした。これには作者自身によって作曲された10の新作が収められていました。
50年代で最もメモリアルな出版は阿炳の曲集ですが、教本としては「二胡广播讲座」(张韶著 1959)があります。より科学的な手法で細部まで検証された資料で、以降に出版された二胡教本の基礎を据えました。
60年代には、第四届「上海之春」コンクールが開かれ、現代では二胡の代表曲となっている多くの作品が発表されました。それらの作品も教本に織り込みながら考級も整備されてゆき、現代に至っています。