音楽というのは一般的に伝統から入ります。細かいことをいうと、もっと簡単な練習曲から入るので厳密には伝統から入っていませんし、よく考えると我々は幼稚園でいつ作られたのかわからない、おそらく文科省規準の唱歌をお遊戯とか、いささか曖昧な形でやったりしていますので、始めから伝統に立脚した教育を受けてくることができたのか正直よくわかっていません。しかしそれは極々初歩であるとか、情操教育の範疇ではそういうやり方なのであって、本格的な演奏家としての教育を受けるようになってくればまず伝統から入るのが決まりです。
二胡の場合も同様で、もう1級とかそれぐらいから古曲の断片をやったりとか、各地方の民歌(民謡)、2級ぐらいになると結構本格的な技巧をやったりもします。劉天華となると少し敷居が高いので4級ぐらいでやりますが、劉天華はオリジナル曲を練習曲以外の作品として10曲残していますので、それらは47曲ある練習曲と同様に各級に割り振られて学習を継続していくようになっています。しかし蒋風之の伝承譜によると劉天華の作品はそれだけではなく他にもまだあります。それらは劉天華が胡弓で演奏するために古曲を編曲したものです。もはやオリジナルと言っても良いぐらいなので、実際のところ劉天華の作品は10曲に留まりません。しかしそれでも現代ではこれらオリジナル作品と編曲は大きく分けて考えられています。
おそらくそれは劉天華作品と断定するには至らない要素、蒋風之の奏法に関する研究が反映されているとか、劉天華自身が作品として確定したものを残していなかったことや、さらに劉天華の師であった周小梅からの伝承譜もあり(これについては後述)、はっきりと劉天華の作品とは言えないということと関係があります。さらにこれらの作品の紹介のされ方、それと政治的な状況も関係しています。劉天華が30代の若さで亡くなった後、その作品は兄の劉複によって1933年に「劉天華先生記念冊」として出版されましたが、その時に出版された曲集には現代広く認知されている10曲が所収されていました(この本は絶版になって久しいですが、天華の娘・劉育和によって50年代に「劉天華創作作品集」として再出版され、これは今でも印刷されています)。劉天華の作品には西洋の文化を取り入れたもの、つまり10のオリジナル作品と伝統に軸足を置いた蒋風之が紹介している編曲、さらに練習曲と3種に分けることができます。劉天華の時代、中国は五四運動下において、伝統文化の排斥、西洋文化の吸収という急激な流れにあって民族音楽は迫害下にありました。そのため劉天華は民族音楽の伝統の維持にたいへんな苦労を強いられましたが、それにも関わらず西洋文化も否定しなかったというのは興味深い点です。彼はバイオリニストでもありました。五四運動が終わった後も、中国人民の文化に対する姿勢は変わったわけではなく、文革という大きな山があって現代に至っても根本の概念はあまり変わっていません。そのことは今に至るまで、劉天華の作曲活動に対して革新的な部分中心に焦点が当てられていることからもわかります。もうそれだけしかないような扱いになってしまっています。劉天華が伝統文化を愛していたことを示すものとして蒋風之伝承譜だけではなく、京劇を紙の上に記録として残した初のものとして画期的だった梅蘭芳歌曲譜、さらには北京・天橋で民間演奏家の採譜を行い、この時に熱病に罹って亡くなりました。
蒋風之によると劉天華が残した古曲の編曲は相当な数だったらしく(文革で消滅)、しかし蒋風之は劉天華の編曲は師の作品とは認めていませんでした。おそらくその理由は、編曲の大部分が単に二胡用の譜を用意したに留まるものであったという、ただの記譜に過ぎないものが多かったからだと思います。しかしよく知られている漢宮秋月は原曲とされる広東音楽とはまるで別物です。ただ音楽的素材が同じだったというに過ぎません。そもそも劉天華の編曲作業が単純、或いは簡単なものであったなら、なぜ蒋風之が劉天華譜のみを使い続けたのか疑問が残ります。それが唯一無二のものであったからに他なりません。しかし劉天華はこれを教育テキストとして使い、作品としてまとめたものを残してはいませんでした。蒋風之は劉天華から学んだことに基づいて作品として完成させました。それではこれらの作品は「蒋風之伝承譜」という位置付けにするしかありません。どちらかというと蒋風之の作品と言った方が間違いないところです。蒋風之の演奏譜は古くは周小梅に辿ることができ、薫風曲について周は幾つもの譜を用意しています。明らかに劉天華より前から伝承されているものです。しかし周小梅の楽譜集には良宵や月夜などお馴染みの劉天華作品も所収されており、作曲者が誰か明示されていません。漢宮秋月も所収されています。学校で使うこのような楽譜集の編集には教師であった劉天華もかなり関わっていたと考えるのが自然です。できるなら周-劉-蒋の流れは全体で1つと考えた方が良いでしょう。
それでも劉天華個人の二胡作品を限定していく場合、練習曲47、近代曲10以外に古曲も含めるなら、明確な証拠が必要になってきます。劉天華は彼自身も出版していますのでそれをまず見ていくことにします。そのうちの1つ、梅蘭芳歌曲譜については劉天華版でなくてもいろんな形で出ているし、これは記譜に過ぎないのでこれはいいでしょう。他には「安次県吵子会楽譜」「瀛州古調新譜」「佛曲譜」の3種があります。おそらくこれらは博物館にありますが中身は公開されていません。安次県吵子会楽譜も記譜に過ぎないと思われます。瀛州古調というのは崇明派伝統琵琶曲が慢板、快板、文板など30曲以上含まれているもので、元々沈其昌が1916年に編纂したものでした。後に劉天華がこれを増刷し教育で使用しました。新譜としたのは数字譜に変えられたからかもしれません。当時生徒だった曹安和が41年にこのうちの文板のみ「文板十二曲」という書名で出版しました。内容は劉天華が教えた奏法に忠実というもので、原譜の簡潔なものに劉天華が装飾を加えた、つまり二胡の蒋風之と同じようなことを琵琶でやったものということになります。琵琶では劉天華オリジナル曲が3曲ありこれは二胡の10曲の方に相当し譜面は容易に手に入ります。次に佛曲譜、仏教音楽を集めたと思われる曲集ですが、これは二胡との関連性はわかりません。蒋風之伝承譜の中に「三宝佛」という曲がありますが、これは広東オペラの舞台転換の音楽(幕が下りて舞台装置を大幅に入れ替えないといけない時に昔は回転舞台がなかったので時間がかかります。その間に器楽曲を演奏して間を持たせるための音楽です。舞台転換音楽は欧州のオペラにもあって名曲が多いことで知られています)でしたので、少なくとも直接的には仏教と関係なく、この佛曲譜の中には入っていなかったと考えられます。このように出てきていない譜がまだあります。「安次県吵子会楽譜」と「佛曲譜」は未完成とも言われているので出版はされておらず、そしてしばらく現物があったから未完成だということもわかっていると思われます。ということは一冊しかないか、或いは失われたかというところだと思います。
民国23年(1934年)に北京・王府井「協和大講堂」にて開かれた「二胡独奏会」のプログラムです。演奏者は女性と男性が混在していますが、すべて子供のようで一人大人の男性が含まれています。よく見ると蒋風之です。これは学校の発表会と思われます。注が2つあり、それによると2曲を除いて劉天華の作品であること、作曲された年代順にプログラムされているとあります。天華の作品でないとされている2曲は3番と6番です。3番は周少梅伝承譜に基づいたもので、6番は上述した三宝佛です。しかし実は12曲全てが年代順だったのでしょう。
劉天華が残した全作品の中でも特に傑出した作品と言える三宝佛、これと薫風曲は傑作と感じられ蒋風之にも同様の感覚があったのか、協和大講堂演奏会ではプログラムにこの2曲を選んでいます。三宝佛は作曲者自身の自筆譜が残されています。
自筆譜は西洋では図書館で保管され、研究者や演奏家、作曲家が参照することもあります。ファクシミリと言われる複製写真が使われますが、高名な芸術家の場合は自筆譜そのものを特別に閲覧できる時もあります。それで何をするかというと、作曲者の筆致を見て手がかりを探します。消えそうになっている符号が発見されたり、流れからテンポや意図されていた表現など、読み取れそうなものは何でも参考にします。もちろん、得られるものは決して多くはない、不毛な努力になる可能性が高い作業ですが、非常に重視する専門家もいます。中国ではあまり重視されていませんが、工尺譜や数字譜ともなるとさらに手がかりが減るからだろうと思います。しかしそれでも参考になる点が見つかることがあります。三宝佛に関しても後代の蒋風之譜はこのオリジナルから装飾が加えられています。それは劉天華自身が基本譜から様々な装飾を加えて演奏しており、それを蒋風之がさらに考証を重ねて結論に至ったものですから、作曲者の元の基本概念はオリジナル手稿の方がよく見えるのです。作品理解のためにはかなり有用なのです。それだけではありません。作曲者というのは自分がこう考えているからといってあらゆる演奏家にそれを押し付けたいとは普通考えないものです。自分の作品で多くの人が楽しんでもらいたいと思うのが普通の感情です。ですから譜面に指定を書き加えるというのは相当余程のことがない限りしません。一方、専門家というのは仕事の結果を提示せねばならないので、こうすべきだという解釈を書き込むのを好みます。そのため自筆譜には比較的、指定があまりありません。ということは書いてあるものはいずれも極めて重要なのです。1行目の161の上に111と書いてありますが、必ず滑音で1の指を使え、という意味です。2行目にも同じ指定がありますが、繰り返しなので適当に書き過ぎて薄くなっています。そうではなくてもっと弱音で鳴らせ、という意味かもしれない、意識して書いたかどうかはわからないがそういうものが筆跡に出てしまっている可能性があります。どちらの仮説も正しいかもしれず、これらのことを知っているだけで今後の演奏にかなり影響を与えるはずです。その次の7には上に2とあります。この時は1に1指があるので2指を使うと2を押さえることになります。しかし鳴らす音は7なので2から7へ滑音で入ることになります。この7を強く鳴らすことは考えられません。アウフタクトでしかも導音ですから、ためらいがちに鳴らされる極めて控えられた表現が求められるのは明らかです。ということはその前の161の鳴らし方が何らかの影響を与えるし、ここは深い考察の求められる部分です。7を影のように表現するために2から滑音で入れます。1から2は自然だが、1から7は7を強化しかねないのでこの部分の滑音は必須なのです。それで2指の記載は大きくなり過ぎてしまったのかもしれません。印刷の電子楽譜では絶対にわからない事柄も推測できます。これだけあっさりした譜面からでも相当読み取れることはあるものです。一部の紹介でしたがこれだけでも自筆譜の重要性がわかっていただけたでしょう。
他に見つかった自筆譜は以下に掲載しておきます。
最後に広東音楽の旱天雷もあります。これは劉天華のオリジナル作品とは言い難い、そのまま記譜しただけという感じがします。劉天華は教育家なので元々こういう譜が結構あり、蒋風之のように独自性が保存されていれば良いのですが、旱天雷のような簡譜なら単に記譜しただけのものになってしまいます。その多くは失われていますが子供らには配っており、その弟子が後に教本を作成した時にその中に所収してあって、我々が失われたと考えていたものがその中に見つかることがあります。その教本は民国以前では儲师竹(写真)が46年に出版した「国楽」ぐらいしかないと思われたので調べますと、伝承譜と思われるものが結構散見されます。仏教音楽まであり、その下に劉天華が紹介されたりしております。京劇、広東音楽など多彩で、劉天華の琵琶譜の二胡編曲まで入っており、これは楊蔭瀏(アービンの録音を手がけた)によるもので、儲师竹(アービンの録音から譜面を起こした)の同僚でした。
伝統曲の中からはっきり劉天華の作品と言えるものは、確かに幾つかはあるのですがそれらを完成された作品とみなすことができるのかはわかりません。しかしそれでも劉天華の譜と言った方が良いものもあるし、一方で明確にする必要もないように感じられます。それより重要なのは蒋風之の演奏譜が、周小梅から劉天華に受け継がれてきた古典奏法を保存しているということです。ある作品が劉天華のものなのか、或いは別の誰かかということは最重要ではなく、奏法の要諦がわかれば過去の古典譜は十分に生かされます。しかし簡譜しかないのであれば、それを適切に生かすことはできません。