"自分だけの二胡"はどのように求めればよいでしょうか - 二胡弦堂

 


 他人が持っていない、自分だけの二胡を手に入れたいという人がいます。言うだけだったら好きにしたらいいですが、これを販売店に言う人がいます。そもそも具体性が伴っていれば、普通はその具体的な要求を言うので、自分だけとか言っている時点で雲を掴むような話になっています。自分で中国まで行って全土を探し回るとか、そこまでやっていたら本気だなと思いますが、メールとか電話一本でその何かを入手しようとする人がいます。しかし実際にそういうものがあると言われるとします。それでもそれは先方の考える唯一の一把です。あなたの考える一把ではありません。こうしてこういう話を聞いていると、どうして人間はこれほど愚かなのかと思いますが、そうではなく、これが人間の性なのです。だから販売店から「これほどの二胡は今後入荷することはないだろう」と言われたら買ってしまいます。弦堂も言います。ただ「これほどの」とは言いません。「このタイプは中古なので、一把限りだろう。もう今後見ることはないだろう」というのが実際あるからです。そういうのはすでにたくさん楽器を持っている人で、自分の所有楽器の中に同種のものがないという人であれば価値があるかもしれません。自分の中で満足した一把がないのであれば、もっと違ったものの方が良いこともあります。それでも一把限りと言われると、その誘惑に抵抗するのは難しくなります。弦堂から警告を受けてもその誘惑には抵抗できません。「それはアクが強いから、スタンダードなものを幾つも持っているならいいですが、ないんだったらそれはやめた方が良い」などと言われます。だけど個性がすごく強いという一点に惹かれてしまいます。愚かです。だけれどもワクワクしてしまいます。とても悩ましい問題です。そこで本稿ではこの問題について考えることにします。

 結論から言うと、二胡という楽器において最終的な一把を決定するのはおそらく無理です。最高の楽器はどういうものかという題であれば、解がほとんど出ていますので、そこから少し逸れたものを求めるにしてもベースになる概念は決まっています。ところがそれが上海、蘇州、北京と北京でもいろいろあるし、そもそもそういったものが集約できない、優劣も不明というぐらいの状況なので、二胡において「これこそ最高」というものが複数並立しているのです。どれも素晴らしいのであれもこれもで全部欲しくなりますが、そうならないのであれば、もう全部知っているから達観しているのか、感覚的にわからないものもあるということになります。達観組が好むのは北京式六角です。特徴がノーマルで何でも八方美人的に対応するからです。こういう言い方をすると特徴がないみたいでネガティブに聞こえますが、実際すごく良いものもあるのでこれも捨てきれないのです。だけどそういう見方をしたらこれもまた多くある中の一種になってしまい、振り出しに戻ります。

 ここでは「自分だけの一把」ということなので、ノーマルではいけません。だけどノーマルでないものは別の言い方では悪くすると不良ということになってしまいます。かなり拘っている環境では、あちらが立てばこちらが立たずといった状況で自分の求めるものをチョイスし、一方を大胆に捨てる、しかしある優秀な製作家はどっちつがずの難しい問題を解決し両取りに成功しているかもしれません。それなのにさらなる濃厚さを求めて片方をわかっていて捨てるということがあります。周囲の人からみたら不良品ですが、本人は欲しいものが得られたので満足しています。もはや道楽ですが「自分だけの一把を求める」というのはこういうものでしょうね。たまたま自分が考えたこともなかったような個性のものが市場にあって、驚いたので買ってみたとか、主観に基づいていないものもありますが、それでもそういうものを愛でるというのは道楽です。それではそういう楽器というのはどういう条件において発生するものなのでしょうか。

 胴であるとか、琴托は全体の音のバランスを考えて削る、もちろん丁寧に作っている工房だけの話ですが、そういう部分なので、そうであれば、他に基準となる部分があるはずです。それは棹です。しかし棹も作り方は決まっているので大きな自由があるわけではないし、その拘束条件に手を入れることはできません。現代では全てが拘束条件になってしまい自由はないですが、例えば棹の太さを変えると激変します。古楽器には細いものが多いですが、そういうものを入手したらもう手放せなくなります。細いって何でこんなに良いのかなと思うぐらいです。芯のある、キリッとした音が鳴ります。逆に太いのも面白く、低音系の楽器に使います。現代の楽器はあらゆる可能性を考えて数値を決めているので優れたものです。古楽器と比較すると現代楽器がなぜあれで正しいのかすごく納得できます。だけど「正しかったらそれで良いのか」と思ってしまい、もっともっとになると「棹の太さはこうあるべき」という自分なりの見解が出てきます。長さで残響も変わるし、琴頭でも響きが変わるので、もうその辺までくると古楽器をみたら作った人がどういう音を狙ったのかまでわかってしまったりします。二胡は単純な構造の楽器ですから、ほとんど棹に集約されてしまうような気がします。上海と蘇州の二胡も結局は琴頭の形状の違いですし、北京になるともっと違ってきますけれど、何れにしても棹だろうと思います。

 文革期ぐらいの楽器は特に、今でもそうですが、製作家によって棹の作り方には様々あって、それぞれ個性があるという場合があります。自分のこれまでの経験で、こういうのが自分の求めているものだというはっきりしたものがあれば、自分に合う製作家や二胡というのは見つかるかもしれません。一方で製作家の側からすれば、そこは注文に応じにくいところです。工房によって考えが決まっているからです。自分のところのものが気に入らないのであれば他に行ってください、といったようなことは普通に言います。こだわりのない工房は何でも注文は受けますが、真面目に注文を聞いてその通りのものを作るところはほとんどありません。それで文革期あたりの、まだ規格が完全に統一していない頃の二胡というのは面白いものが結構あります。これまでに接したことのない二胡というのはこの時代から結構出ます。そういうものは製作家に明確な考えがあり、棹だけでなくその他の各部も1つの考えに沿ったものになっているので、一貫していて説得力があります。

 二胡はその所有者と共に育つので、オリジナルの二胡は本来は奏者が作るものであるとも言えます。骨董で古楽器を発見し、まだ皮が使えるので演奏させてもらうと、すごい癖に閉口したことがあります。「無理やりこう使え、と言っているような感じの癖がありますね」と言うと、店主は「亡くなった人の遺留品を引き取ったものだ」と言います。その人はかなり変わった拉き方をしていたようです。あるポイントだと美しい響きになるが、その運弓が普通ではないのです。また、その許容範囲も狭いのです。皮もかろうじて使える程度だったので、これを張り替えるも、どうやら木材の方にも癖がついているようで、拉き方がかなり制限されます。鍛え直すと良くなりましたが、それでも音色はその個体独自のものがあったように思います。この事実は、我々二胡奏者にかなりのプレッシャーを与えますね。楽器製作が全てなのであれば、製作家を批評するだけで結構ですが、演奏者の方が強い影響を与える、楽器は器に過ぎないということであれば、自分のレベル(というと曖昧な言い方ですが)が良くも悪くも自分の楽器を作り上げることになるわけですから、何もかも自分次第かもしれないということになってきます。鍛え直すも可能なのでそれほど深刻に受け止めるほどのことではないのかもしれませんが、自分が成長するのは難しいことなので、かなりの難題であろうし、自分自身がそもそも何なのかを持っていなければ、"自分だけ"の二胡なるものはわからないのではないかと思います。