音楽はまず前提として技術が必要です。楽器を演奏する、歌を歌う場合はもちろんですが、手拍子のような一見簡単なものまで芸術作品として仕上げるためには技術が不可欠です。(フラメンコ鑑賞の際は一般客が掛け声を掛けるのは歓迎されますが、手拍子はしない方が良いと言われます。) 要求されている技術というものがあれば、それは演奏者に対する要求ですが、一部は楽器にも要求されています。音楽に求められている表現は多様で無限です。特に拉弦楽器に求められるものは、人の声で表現できるレベルを理想とします。これもまた、演奏者に対する要求であれば、一部は楽器に対する要求もあります。
熟練した名手は演奏に相応しくないと思われる劣悪な楽器でも上手に演奏できます。もし演奏者と楽器に対する要求が50%ずつであると仮定するなら、30%の楽器ではどれほどがんばっても80%にしか達しないことになります。それでも名手は欠けた20%を埋める技術があるかもしれません。逆に自分が30%の演奏者であれば、その場合でも楽器には50%に達しておいて貰いたいと考えます。この部分は自分の努力では埋められない部分なのでなおさらそう感じます。30%の二胡なら自分の能力も30%なのでお互いに20%ずつ欠けたものがあります。それでもうまく噛み合えば最大で60%に達しますが、まずそんなことはなく、足を引っ張り合ってせいぜい40%ぐらいにしか結果が出せなくなる可能性があります。優れた奏者が楽器の欠点を埋めるように、優れた楽器は欠点のある演奏者の欠けたものを埋めることがあります。「優れた二胡」というものを定義づけるとすれば、技術力と表現力が最大限に引き出せる二胡であると言えるかもしれません。
しかし音楽とか、人間といったものは非常に複雑で、50%のような単純な数値で表せるものではありません。演奏者が二胡に要求する理想の「幅」は個人によって違う筈です。ルーズに作った方が良いところと、きちんと作るべき部分があり、何もかも楽器の方で埋められると演奏者が入り込める隙間がなくなってしまうことになります。楽器製作だけでなく作曲作品でも同じですが、1つには演奏家にどれだけの解釈の幅があるかによって作品の偉大さが決まる、と言われます。楽器についても音に感情が不必要に載っていてはいけないというのは言えると思います。器でなければいけない、器に入れる具であってはいけないというのはあると思います。しかし楽器製作者個人の独特の味のある個性は、それがたとえ例のない特殊なものであっても愛されることがあります。
台北の故宮博物院に収蔵されている中国史上最高傑作の器と言われているものは、真っ白の器です。飾りはありません、ただ真っ白です。器は料理を載せた時に、価値が明確になります。楽器も同じで、いかにあらゆる表現を可能たらしめるか、演奏家が楽器という器にどのようなものを盛りつけれて美しく表現できるのか、そのバリエーションの多彩さはどうか、によって価値が決まります。これは別の言い方をすると演奏家に対して、ある特定の二胡がどれだけ程よくサポートするか、匙加減はどうか、ということになると思います。料理より器が目立ってしまってはいけません。
そうであれば、感情が異なる男女では求める楽器は違うものになる可能性があります。埋めてほしい部分が男性と女性とでは違うと思います。それで女性の演奏家が女性の制作家の楽器を使うということも実際あると思います。
ここでの内容は、制作家から見ると途方もなく大きな要求です。このことが二胡製作を生涯打ち込む価値のあるものと感じさせる理由なのかもしれません。