二胡はどこから来ましたか? - 二胡弦堂

 


古代の二胡の図ウィグル二胡の図  二胡はシルクロードを伝ってやってきました。音楽の発祥は古代オリエント方面で、当時の各国宮廷楽団はユダヤ人で組織されていました(優秀な演奏家になるための条件とは何ですか?参照)。その後ユダヤ商人はシルクロード交易を発明し(絹の生産を始めたのもユダヤ人でした)、街道沿いの各駅はユダヤ商人に支配され、終着点の長安にも大きなユダヤコミュニティがあったことが明らかになっています(注:実際の終着点は日本だったかもしれません)。交易によって多くの異民族と接する彼らは、文化と言葉を超える音楽を使って訪れた地方の人々と交流し、商取引を円滑に進める道具の1つとして楽器を使ったとされています。しかし中国には文献としてこのような記述は残されていません。

 このようにして中華圏に入域した拉弦楽器がどのような変遷を経て現代に至ったのかよくわかっていません。そのため一般には文献に証拠があるものに限定して論じられています。最も古い記述は宋代に宮廷音楽師だった陳暘が著した全200巻の「楽書」の中に「奚琴」として図と共に記載があります。「元史」(明代元年に編纂開始)に記載されている"胡琴"と呼ばれる二弦の楽器に関する記述の中では弓を以って弦を擦るのは馬尾である、とあります。清代乾隆年間に著された「皇朝通典」にも奚琴が記載されています。これは奚族の楽器だったためにそのように呼ばれ、蒙古の匈奴(元は夏王朝の末裔でユダヤとされています)が奚族を征服した時に匈奴に取り入れられたとされており、そのため二胡はモンゴル方面発祥ともされています。清朝は蒙古の一氏族・女真族による王朝ですが朝鮮と境を接しており、朝鮮には今でも奚琴という楽器が残っています。そのため朝鮮発祥であるとか、満州方面発祥とする学説もあります。皇朝通典にはさらに"番胡琴"なる楽器についても記載があり「胴は椰子、棹は竹」とあります。そして「馬尾は二弦の間に入れる」とわざわざ説明しています。番胡琴は「奚琴よりも小さい」とあります。番とはおそらく梆のことでしょう。梆子に使う胡琴で板胡と転じたとすれば、現代の板胡の原型ということになります。またこのような楽器は南方にもあります。

 中国側からみますと、万里の長城を伝ってさらに向こうに異民族の地方に足を踏み入れると、ウィグル族が多く住む土地に入ります。このあたりにある二胡は西から伝播してきたのか、或いは中国から逆流してもたらされたものなのかわかりませんが、一部を除けばよく似ています。はっきりした違いは、ウィグル二胡には共鳴弦が複数あるということです。弦はすべて皮の上を通過していますが、共鳴弦は張っているだけで実際に弓を当てるのは2弦だけで二胡と同じです。劉天華以前の二胡は音域が狭かったと言われていますが、このウィグルの楽器は今でも狭い音域で演奏されます。

 二胡の由来については様々な説がありますが、結局全て正しいのではないかと思われます。シルクロードは絹の交易に用いられたのでこの名称で呼ばれていますが、その終着点は蘇州です。蘇州では現在でも絹が名産です。蘇州は二胡の本場でもあります。

ウィグル二胡の演奏

 古い資料に見られる二胡の中には敦煌の石窟に描かれているものもあります。まるでチェロのように演奏しており、琴頭もチェロのようです。この壁画の時代背景はわかりませんが、莫高窟は4世紀から元代までのものなので、相当古いものであるのは間違いありません。もしかして最初はこのような形で入ってきたのかもしれません。後の2枚はより後代のものですが、気になるのは棹が非常に細いということです。もちろん古い楽器の全てがこのように細いわけではありませんが、文革ぐらいまでは細棹が多かったので、絹弦時代には一般的だったと思われます。このような楽器にスチール弦を張ると音が抜けない、響かないことがよくあります。それでスチール弦には太棹が良いのかと思いきや、20世紀末のまだ二胡が完全に統一された規格で作られていなかった頃のもので結構細いものがあったりします。

古い文献中の二胡