音楽には舞踊の伴奏曲として作曲されているものがあります。それらの作品を演奏する場合は舞踊曲であることを踏まえている必要があるのでしょうけれども、それは何か掴みどころのないもののような気もします。その理由はおそらくリズム主体のものが多いからかもしれません。簡単なようですが、意外とそうでもないというところがあります。また演奏に舞踊が合わせることが多いということもあります。演奏の方が主観的に決めてしまいやすい傾向があるということです。そのためかバレエでは舞踊からのオーケストラへの要求が厳しいらしく、やはり呼吸感のようなものを共有できない、極端な言い方で表現するとすれば無神経な演奏では全く踊れないのではないかと思います。どんなものでも舞踊の方からはそれなりの要求は常にある筈ですが、演奏家が舞踊も嗜んでいない限り、共通のものを見出すのはそれほど簡単ではないのかもしれません。
お写真はエジプトの伝説的ダンサー サミア・ガマルさんです。
本稿を見られている方で舞踊の伴奏というのはそれほどおられないと思いますが、公の場での演奏で舞踊曲をやるということならあるかもしれません。踊る人がいないので好きなようにやっても問題はないのですが、それでも素養としてある程度わかっておきたいということもあるかもしれません。しかしこれはそんなに簡単なことではありません。音楽は100年以上前から録音があり、楽譜なら数千年の歴史があります。しかし舞踊にはありません。記録が容易に残せるようになってきたのは8ミリ以降、もっと容易になったのはスティーブ・ジョブス以降ですから最近のことです。失われた舞踊は数多くあります。音楽には数え切れない程の不滅の演奏があります。しかし舞踊にはほとんどそういうものはありません。ですから舞踊を理解するのは音楽とは違う難しさがあります。
中国の舞踊は21世紀に入ってからニューヨークで復興の努力がなされてきて、中国舞踊というものが確立されていますが、純粋な中国の古典ではありません。古典として残っているのは主に武術です。カンフーや太極拳として残っています。しかしこれらと音楽との関係は希薄です。
世界に目を向けるとワルツ、タンゴ、サンバ、最近?のヒップホップ、社交ダンスなどいろいろあります。いずれも音楽がまずあって、それに合わせるようなものです。芸術的に高度なものというとフランス発祥のバレエか、アルゼンチン・タンゴではないかと思います。音楽の場合は各民族でかなりの個性がありますが、舞踊は相互に関連性があります。欧州舞踊はアジアからの影響です。民間の農民によって踊られるダンスをカントリー・ダンス(田園舞曲)と言い、それが英国宮廷に入ったものがコントルダンスです。社交ダンスは英国が本場で、権威あるブラックプール・ダンス・フェスティバルはイングランドで開催されています。コントルダンスはかなり簡潔なもので、バレエの初級と見ればわかりやすいでしょう。バッハやモーツァルト、ベートーベンも作曲しています。作品の多さは貴族が如何にダンスを好んでいたかを示しています。ルイ14世がパリに王立学校を設立し、王自らも簡単な役に出演するなど強化に努めたのがバレエの始まりです。
さて、コントルとはどういう意味でしょうか。直接的意味は「対する」なのですが、初期のダンスは男女が向かい合っていたのでそう呼ばれていたのかもしれません。コントラプンクトというのは対位法のことで、2声以上の旋律が平行して鳴らされる場合の方法を示すものです。コントラティエンポ Contratiempoは、フラメンコにおいては主拍子とは異なるタイミングで鳴らされる手拍子や足を打つタップを示し、裏拍子とも言います。アルゼンチン・タンゴでのコントラティエンポはまた異なり、これはハバネラの拍子を示します。♩. ♪♩♩を基調としており、第1拍が長く、残りの3つを後半に寄せています。3拍目も少し強くします。この拍子は元はコントラダンスの特徴だったのでコントラティエンポと呼ぶのでしょう。フラメンコにも影響を与え、キューバのハバナに入ったことで黒人音楽とも融合し、ハバナ風を示すハバネラとなりました。ここから8分音符を外すとワルツになります。ハバネラがラプラタ川流域に齎されミロンガとなり、これがアルゼンチン・タンゴとなりました。つまり舞踊のテンポなるものの特徴はどこもほとんど同じなのです。高度に発展したものは、振り付けと高度な訓練を伴うバレエ、コントルダンスの最終的な発展型はアルゼンチン・タンゴです。タンゴはアルゼンチンのものですが、しかし南米音楽に詳しい人、専門家でもタンゴはよくわからないことが多いようです。それぐらい異質だということです。イタリアやスペインの移民が欧州クラシックを持ち込んだもので、南米のものではないという認識です。そこへ黒人音楽や地元の音楽も混じり、芸術然ともしておらず、かといって軽音楽でもない、非常に曖昧な、極めて独特の芸能です。インターナショナル・クラシックです。使う曲は4拍子にタンゴ、3拍子にヴァルス(ワルツ,メヌエット)、2拍子にミロンガ(ハバネラ)です。2拍子と4拍子は速度が違うだけで明確な区別はありません。ワルツの3拍子も1拍目のみ数えて4つ組にしますのでやはり区別はありません。あるのは速度の違いと曲想によって表現が変わるぐらいです。ですが、速度が様々というのは珍しく、社交ダンスの場合はそれぞれのジャンルでほぼ曲の速度が決まっています。バレエも舞踊の観点から音楽の速度は制限されます。この2種は振り付けです。音楽の速度が様々というのは舞踊の観点からかなり難しいことですが、タンゴはそこをさらに即興で組み立てます。タンゴの舞踏会もミロンガと言いますが、曲が流されると男性が女性にオファーします。1曲は平均3分程です。おそらくSPの長さ未満です。これを3曲踊ると短いブレイクタイムに入って舞踊曲ではない曲を流します。これを繰り返します。ですから最初に舞踊曲が流れたらそれで踊れるのか判断して組み立てねばなりません。そのため3曲組は似た曲で構成します。数分の短いブレイクタイムの間に酒も飲みます。バレエや社交ダンスでは基本、酒は飲みません。ものすごく独特です。入場料さえ払えば見学できますので一回見に行ってみて下さい。バイオリニストであれば生演奏もありますから仕事も取れるでしょう。欧州の民族舞踊が結実したものが南米にあるのは2つの世界大戦でアルゼンチンが中立だったこと、多くのユダヤ人がブエノスアイレスに逃れてきたことと無関係ではありません。舞踊の本質はタンゴを見ないとよくわかりません。
1つご覧いただくのは、動画をアップした人の注記によるとレッスンだったとのことで、見ている人たちのほとんどは生徒のようです。タンゴの基本的なステップをほとんど使って1曲仕上げているという凄いものです。タンゴは即興と振り付けがあります。伝統的には即興で踊られます。男女で踊られますが、意志を合わせていないと即興で二人で動作をも合わせるのは不可能です。男性が組み立て、女性が合わせます。ロベルト・エレーラ Robert Herreraさんはブエノスアイレスの有名楽団のプリンシパルを歴任された有名な方で、ローラ・レガスクエ Laura Legazcueさんとは長年やっていてYouTubeにも多数の動画があります。2014年の映像です。コントラダンスとは比較にならないぐらい高度化しています。
* ネットで調査と人に聞いてなので正確かどうかわかりません。
0:00 カミナータ Caminata まず「歩く」
0:02 レボーテ Rebote 跳ね返るように戻って左に展開
0:06 ケブラーダ Quebrada 「渓谷」の意。沈める
0:09 パラーダ Parada 止める
0:11 パサーダ Pasada 跨ぐ
0:15 バイベン Vaiven 往復
0:15 ラピス Lapiz 「鉛筆」の意。半円で床を掃く
0:18 クニータ Cunita 揺れる
0:28 オーチョ Ocho 8字を描く動き
0:29 メディオヒーロ Medio Giro 回転の一種
0:35 ビボット Pivote 腰の下を回転
0:45 ラピス Lapiz 0:49からと2回に分けている。女性の方は2回を1回で組み立てると想像したので体勢が少し崩れている
1:16 モリネーテ Molinete コーヒーの「ミル」の意
1:33 ヒーロ Giro 左回転
1:50 パラーダ Parada 止める
1:51 サングチート Sanguchito 「サンドイッチ」の意。両足で挟む
1:56 パサーダ Pasada 0:11とは逆
2:00 サカーダ Sacada 払う
2:12 ボルカーダ Volcada 女性が上半身を預ける
2:18 カレシータ Calesita 「回転木馬」の意。女性を回転させる
2:38 バリーダ Barrida 相手の足を払う
2:44 アメリカーナ Americana 互いに同じ方向に足を出す。バリーダと組み合わせている
2:52 ティヘラ Tijera ハサミのようなジャンプ。互いに足を絡めるガンチョ Gancho(「鍵」の意)の亜種
2:54 ボレオ Boleo 「鞭」の意。足を跳ね上げる
3:02 アブラッソ Abrazo 抱擁。しかしタンゴのアブラッソは組み方を指し抱擁とは異なる
歩く、回転するといった基本動作においても、それが音楽に適ったものとするのであれば、移ろい、変化はあります。表現が平板な音楽、無表情な音楽では、舞踊で表現できるものも限定的になります。映画音楽の場合は先に映像があってそれに音楽を合わせますが、舞踊はまず音楽があります。それでも舞踊で表現されるものを踏まえていなければ、何か違った感じを与える音楽になってしまいます。スペイン語表記での名称も書いてありますが(ネットで動画も含めてやり方などの説明が出ると思います)、これらの技法が美しいとされていますので、演奏の方でも舞踊でこういう体の使い方をすることは踏まえておく必要があります。
舞踊において、おそらく最も重要なのは回転です。バレエも見どころは回転で、それを中心に組み立てます。フィギュアスケートも回転が重要です。体操、新体操、何でもそうです。なぜなのでしょう? わかりません。大技は回転です。鑑賞価値があるのも回転なのです。回転にこそ美が詰まっているのです。もし回転を省けばどうなのでしょう? 大きな喪失感があるでしょうね。人間はクルクル回ったら美しいのですか? そのようです。不思議なものです。回るというのは夢があるのでしょう。メリーゴーランドは直進だったらいけないのでしょうか。陸上トラックのように回るものも作られたことがあるようです。土地の活用を考えてのことかもしれません。しかしトラックでは直進中心で、回るというより迂回してまた直進というイメージです。コーナーを回って直進は戦う印象になります。理由はともかく大不振となったのでまもなく姿を消したようです。上下しながら直進する樹脂製の馬に人々が違和感を感じたのでしょうね。ディズニーに行ってアトラクションに乗ります。肝心な部分に差し掛かると突然大きく曲がり、何かを予感させます。この演出がキモだったりします。回転は人を惹きつけます。回転を意識した演奏、これが舞曲演奏の本質なのではないか、回転を如何に美しく描くか、これに尽きるのではないかと最近思うようになってきました。バッハの作品には舞曲様式が指定されているものが少なくありません。肝心の舞踊がどういうものかはっきりしないものもあるのですが、回転していたであろう前提で見るとわかりやすくなるかもしれません。そして1拍目を長くしての残りの3連符も舞曲の特徴です。動きが出ます。
この動画で使われているのはフランシスコ・カナロ Francisco Canaro作曲のInvierno(冬)という作品で、YouTubeには自作自演もあります。非常に官能的な演奏です。この曲を使って他のダンサーが踊っているものもあるので比較してみてください。動画サイトに上げられているぐらいなので優秀なものが多いですが、ロベルト・エレーラほどのものはありません。しかも振り付けばかりで即興はありません。比較すると舞踊で要求される表現力がわかりやすいと思います。カナロの演奏を使ったものは見当たりません。音楽にこれだけ力があったら舞踊が負けるのではないかと思います。もしかすると舞踊の表現というのは音楽より難しいのかもしれません。
ロベルト・エレーラのものは教育目的の見本だったようですが、それではサロンで普通に踊る場合はどうなのでしょうか。あらゆる技法を織り込むというようなことはせず、もっと自由に表現する筈です。そこで次の動画なのですが、2004年ブエノスアイレスのサンダーランド・クラブでの映像です。
カルロス・ガビート氏に関係する何らかのパーティが開かれたようで、最初に中央で少し痩せた男性が映っていますがこの人です。ガンで痩せたので退院祝いかもしれません。その後、広間中央にご婦人が登場します。「タンゴの母」と言われるマリア・ニエベス女史です。そして4名の有名舞踊家と交代で踊ります。3人目がガビート氏です。前もって振り付けはやっていません。特に注目は一人目のハビエル・ロドリゲス Javier Rodriguez氏ですが、ほとんど歩いているだけです。それでこれだけ華があるというのは凄いものです。ガビート氏についても、止まっている時間が長い独特の芸風ですが、止まっていることが不自然に映らない、これにも対応するニエベス女史の懐の深さには驚かされます。こういうものを見ると演奏の方もどうあるべきなのか示唆するように感じられます。
これまでただの娯楽として受け継がれてきたものが、高度な即興性を帯び、男女という脳の構造がまるで違う者同士が互いを補完して信頼と敬意によって香り高いものへと昇華する、そういうものへと発展しました。本当に感動する見応えのあるものが限りなく少ないのはそのためです。人間性が試されるものです。人間としての欠陥がなぜか出てしまいます。音楽? 不良でもいけますからね。欠陥だろうが弱さだろうがそれを魅力と押し通すようなことも可能です。舞踊はそれはできません。本稿の動画で、音楽とは違う舞踊の神秘性を感じ取って下さい。
フラメンコは一人で踊りますが、その技法を確立したカルメン・アマヤの映像がまだ残っています。これほど情熱的な舞踊を支える音楽にもまた情熱が求められることがわかります。