終止音について - 二胡弦堂

 


 終止音は西洋では主音と決まっています。長大な作品においては複数回繰り返して終止感を強調することも多々あります。これは聴感でも明解です。

 一方、東洋音楽は複雑です。主音の概念が希薄です。インド音楽であれば音階を決めるのが作曲の重要な要素で無数にあります。音程が半音のそのまた半音と無限にあるからです。これは音階というよりむしろ使う音を限定するものです。各音の音程関係がバラバラなので、そこに主音という概念はそれほどありません。

 中国は近代に西洋理論を取り入れて五音階に調の概念を取り入れました。しかし第4,7音がないのに調性を確立できるでしょうか。状況によって調性はあれもあるこれもあるでよくわかりません。そのためか中国理論は古い本に応らなければ見いだせなくなっています。

 しかし東洋五音階自体は数学的に決まっているため、各音の相互の関係性はあります。その中で機能の強い音は確かにあります。複数弦を使う弦楽器において各弦の音程関係はほとんど5度で4度もあります。音の1つ1つを独立したものとみなした場合、調弦を4度にしようが5度であろうが使える音の数はほとんど変わりません。しかし機能の強い音を空弦(開放弦)に設定すべきであれば、どの音を空弦に当てるかは重要になります。

 東洋弦楽器の第5音は基本的にもう1つの選択肢として1つ音程の高い弦の空弦を使うこともできます。空弦は一般にそれとすぐわかる響きなので、音の粒を均一に保とうと思えば使いにくい音です。しかし一般に、注記がない場合は空弦を使うと決まっています。音階上の主要な音を明確化させるためです。

漢宮秋月
 以下、劉天華の古曲作品のみで見ると、漢宮秋月(上の譜)は空弦が6と3、主音が6で西洋の短調と同じです。184小節目で6にて理論的には終止しています。しかしこの作品の意味するところを表現するに、明確な終止のみでは相応しくありません。年老いてきた宮女が悲しみを抱きながら月を見上げる様子を描写したものだからです。明確な終止が相応しくないとしても、人生は明確に決定づけられています。それを表現するために一旦6で終止しています。しかしそれでは足りていないものは表現されていません。ですから主音の6より1つ音程を下げて導音の5を使って全終止しています。導音は音階の中で最も機能が弱い音です。強い主音と隣り合っているので常に主音の影があります。主音には完全な終止を印象づける強い力があります。主音で表現できるかもしれない満足な人生に足りなかった何か、もう少しで届きそうで届かなかった虚しさを表現するのに導音を使ったのはそのためです。そしてこの音には揉弦を使わないように指定することで空虚な心が表現されています。しかし186小節目では揉弦を入れるよう指定があります。これが表現しているのは涙です。

 184小節の6は、2つに分かれており、最初の音は短く切られて2つ目の音とはっきり区別するよう指定されています。6は終止音ですが、これがまず短く切られて提示されています。きちんと終止すべきと思わせるのは4度下降だからで(2→6)、ところが何かが喉につかえたように止まって僅かな空白もあり、次に伸ばされた6も未練を残すように少し短くしています。辛さを感じさせるのは、この2つの6が連弓だからです。提弓で止めていることも我慢を感じさせます。ピアノ(p:弱音)から始まって消え入るように奏されます。そして185小節の5に入りますが、より弱くなって滑音で入れます。提弓で詰まらせた後、最後の5の途中で揉弦を入れるところで少し力が入るように見えます。強弱は下に<>で示されています。

 このように見ていくと、5の滑音はそんなに簡単とは思われません。この作品を純音楽と見做した場合、この滑音は大きく入れるのが第一感です。しかし、どうなんでしょう? 小さくしたからといって適切とは限りません。千斤に近い、弦の硬いところなのでまだやりやすいものの、如何に処理すべきかを安易に捉えると、それまでの積み重ねを失いそうです。3度音程の滑音は直近でも177小節以降に多用され、その残像が残っています。同じように扱うのは難しいでしょう。かなりデリカシーが求められます。その前の165小節には細かい滑音の連続があります。最初の4が#、次の4がナチュラルです。4#はもう一つ上の段にもあります。5に近い4、これは若い女性独特の心情を表すものです。これを形容する適切な言葉が見つかりませんが、気分重視の唐突な感じ、良い意味での浅薄さを表現するものです(4#は4#よりちょっと低いです)。ですから165小節の2つの4、これは幼さから大人になる過程で揺れ動く変化の兆しを示すものです。4#は5から入れます。その前が5だから。そしてもう一回5から入れ直して、2回目は4に達します。これも実際は4より僅かに高いですが。5の存在感を薄くすることと、小さな滑音によって純粋さが表現されています。そこで185小節に戻って、ここを単に小さく滑ってそれで良いか、これもまた疑問です。表現されているものが違うからです。4#から入れましょうか? はっきりしたことは言えません。具体的にどう奏するかより、何が表現されているかが大事になりそうです。

欧鹭忘机
 空弦が必ずしも最も主要な音を指すとは限りません。欧鹭忘机では空弦が2と5音で、C調とあり作品自体も1が主音であることが明確で、1で終止もします。7音長音階であれば主音は必ず1になるので自然です。理論的には端正な作品です。出典が戦国時代の列子・黄帝編から取られたもので、人の心は水に浮かぶ鳥のように澄んだ美しさを湛えているべきというものです。なるほど、それでC調なのでしょう。雑味が最も少ない調です。しかし、空弦に使われているのは2と5です。この作品は47はほとんど使われておらず、使っても経過音のような重要性の低い箇所に限られています。4は使えないので、半終止は理論上2と5になります。しかし実際には36がほとんどです。25は若干強い終止感が出るので中国古典では慎重な使い方が多いです。しかし割当が空弦です。ですから無意識に意識させるようなそういう効果があるのでしょう。

梅花三弄
 梅花三弄は、空弦が1と5です。主音が1で第212小節で終止しています。以降の末尾が江南の特有の様式です。2つに別れていて、それぞれ6と3で終止しています。終止感の弱い印象です。これによって自然の無限の美を表現しています。また6と3は短調の主音と属音であることにも注意する必要があります。