こういう言い方をすると反発があるかもしれませんが、二胡を文化と捉えてやっている人はほとんどいません。問題があると言いたいわけではありません。また中国人と日本人の二胡に対する概念も異なります。演奏活動をする場合、社会が音楽をどう見ているかについての理解が必要です。世の中の仕組みを素早く嗅ぎ取って、巧みに生きていく強かな方もおられると思いますが、そうでない方にはよくわからないこともあると思います。そこで本稿では社会面について、耳障りの良くない話もあるかと思いますが、解説を試みたいと思います。
中国の話は必要ないかもしれませんが、一応理解しておいた方がいいかもしれない、この点、日本と中国は音楽を取り巻く環境が特殊なので、どういうことになっているのか、まず大陸の方からご説明することにします。誰か日本人が大陸に行って二胡をやるとします。どうして二胡をやりますか。一番多い理由が趣味です。何の問題もないように見えます。しかし中国人は理解できません。当惑します。「趣味? どういうこと? 食っていけるの?」と言います。ということは、彼らは生活のために楽器を手にしているのです。それ以外の選択肢はありません。幼い天才たちが音大の付属中に集められて英才教育を受けます。しかし上に上がれるのは一部の生徒のみです。残った子供は寮を出て実家に帰らねばなりません。親や親戚に経済的な負担をかけ大いに期待されて故郷を出たのにどうして何も得ずに帰ることができるでしょうか。子どもたちの集団自殺が報道されたりします。これだけ命がけでやっているのに、東の方の島から来た連中が趣味? 絶句して頭がクラクラする人が結構います。冗談ではありません。かなり当惑する人が多いです。好きか嫌いかではなく生きていくために、能力がありそうだったらそこを延ばします。どうしてこんな風になってしまっているのでしょうか。我々は周小梅が民族音楽の復興のために尽力し、その弟子の劉天華が如何に苦労したかという話を知っています。どうして苦労したのでしょうか。まず西太后が欧米日列強に遅れを取った、一方、日本は明治維新で西洋文化を取り入れ成功したという背景があり、その中で民主化(共産主義は民主主義の一形態、また孫文による国民党もあった)に向かう中で早く強国になりたい願望が抑えきれず、日本他を追撃するため急速に伝統を放棄する流れが生じたためです。これは文化大革命の伏線ともなりました。文革では伝統はすべて否定されました。伝統を捨て西洋を取り入れる、この中には二胡の西洋化も含められます。これがどれぐらい奇妙なのか、三味線をギターと同じぐらいの国際的な地位に押し上げたいという人がいたらどう思いますか。もちろんそういう努力をすることに問題があるわけではありませんが、ギターの楽曲を取り入れて三味線を国際化させると言ったらかなり奇妙なことです。目的が政治的経済的なものなので、なんでもあり、どうでも良いのでしょう。大陸は万事、極端に動く傾向があります。全体主義で、異なったものと分け合うということはありません。戦後、米陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥が「もし国民党が共産党と戦うなら国民党は滅びる」と予測し大陸の共産化を防ぐため、国民党への莫大な援助の見返りに共産党と調和するように説得しました。蒋介石はテーブル上では同意し金を受け取ったら直ちに内戦を開始しました(マーシャルは若い時に3年の中国勤務を経験しているのでこうなるのはわかっていたはずです)。バランスの概念がなく100%で考えます。伝統を否定したら携わる人を皆殺しにしても消しにいきます。今は逆に中国文化を世界に広めようとして、これもまた地元の習慣を駆逐圧倒して進めるので問題になっています。文化というものが愛すべき対象ではなく、戦いの道具になっています。それでどうしろと? いや、何もありません。本論は日本の方に言及したいので、その前に中国の置かれた特殊な状況をご説明しただけです。
日本は伝統文化が残されています。しかし国民生活に近い存在とは言い難いものがあります。その分断は大戦によって齎された痛ましい傷です。現代日本の音楽界とは何なのでしょうか。すでに報道などもされているのでご存知だと思いますが、芸能界とかテレビとか、その周辺の興行は反社会勢力が支配しています。朝鮮半島にルーツを持つ人々が主に使われていますが、そのシステムを作ったのは日本人です。GHQという人もいるしそれも正しいのでしょうが、その辺の話はここではやめておきます。戦後体制に関係するかなり政治的な事情でそのようになっています。しかし世界の政治体制の変革期にあって、彼らの存続は危うくなってきています。広告代理店であるとか芸能事務所などの強大な権力に対する風当たりが強まっています。彼らよりもっと強いところが攻撃して内情が暴かれるようになっています。戦後の芸能業界は主に米国からの、最初は映画の輸入から始まり、やがて音楽も影響下になりました。いつの間にか「邦楽」という言葉が米音楽の焼き直しを指すようになっていました(こういう言葉の運用は日本人や中国人など漢字圏の人間であればしないし思いつくこともないでしょう)。ですから、邦楽は何ら伝統の上には立脚しておらず、結局は大衆消費財以上のものにはなっていません。このようなものを作り上げるのに、伝統がない朝鮮人が使われました。朝鮮は日本占領まで平屋の掘っ立て小屋しかなかった朝貢国で、ロシア帝国からの圧力を受ける前線として日本に開発されたところです。日本や伝統文化に対し距離がある人たちによってプロデュースされたものでした。重ねて申し上げますが、これは何が正しいか間違いかを明らかにするものではありません。何十年も前からの事柄に白黒つけてもしょうがない、朝鮮批判に繋がらないようにしてもらいたいということ、そもそも今生きる人達に何の責任もありません。ただ戦後の音楽業界はそのように作られてきたものだということです。
伝統の重みは一切ない、そういうものを持っていない人たちによって作られたのだから、ルックスさえよければ、適切にプロデュースさえされていれば、歌がとてもとても下手でも売れます。何で流行るのか、全く理解できないものは幾らでもあります。流行っていないが流行っていることになっているものも多数あります。一方、日本のクラシック業界は外国からの輸入であるのは同じながら、戦前からあるし、ほとんど関係していません。ですから、音楽をやったら全部芸能界というわけではありません。しかし何らかの抵触は有り得ます。例えば、CDの販売などは芸能側の支配範囲だし、コンサートをやるということで企画運営広告をそれぞれ専門の会社に頼めば全部そうです。特に問題はないと思いますが、そういうシステムということです。
このような経緯で日本は文化難民化しています。拠って立つ土台を失っています。それが理由なのか、何かを探し求める旅に出ているのか、世界のあらゆるものがあって音楽もそうです。世界のどこかの音楽の専門家が必ず日本には存在するという驚くべき状況です。二胡を使ってどうするのかというやり方はいろいろあるのでしょうけれども、1つとしてライトミュージック的に提供するという方法が、日本だけは成立します。戦後そういう方法論でやってきましたので、そういう土壌ができているからです。そこからは、地に足をつけて中国文化を中心にやっていこうという考えは出てきません。例えば洋楽と言われるもの、ほとんど米国のものですが、これも本格的に導入はされていません。ですから本物を聴きたいマニアは邦楽など聞かない、洋楽しか聞かないと言われています。表面だけ取り入れるか、中身を商業面に基づいて入れ替えます。本質はどうでも良い、そこは重要ではないという概念が中心です。その世界に生きていると、社会の変化とか何かの都合で急に利用されてブレイクがあります。エントリーしておいて待ちに徹するようなスタイルになります。世界情勢の変化で親中に舵を切ったら我々は英雄になるかもしれない、顔が良かったら有力者と親しかったら二胡が下手でもブレイクはあります。音程などデジタルで修正できるわけですから問題になりません。
こういうのは関心しないという方も少なくないでしょうが、娯楽と思えば全然問題ないと思いますね。「癒し」という言葉が好きな方も多いですね。ライトに楽しんだら良い感じもまたこれも1つでしょう。それで、ここに来て何でこういうことを言い出したかと言うと、このシステムが徐々に過去のものになりつつあるからです。成功しているうちは結構だと思うのです。社会の人が楽しんでいるわけですから、それで何も問題はありません。水を注すつもりはありません。しかし皆さんも御存知のように音楽は売れなくなっています。ネット時代だから? おそらく違うと思います。テレビもネットと同じく無料ですが、テレビでも音楽番組はなくなってきているようですね。しかもテレビはわかりやすく紹介しますが、ネットはその点劣ります。ネットの動画コンテンツも元はテレビだったりしますし。だけど本質的に人々が音楽から離れているわけではないでしょう。もう自分で選んで自分で聴くようになっているのです。テレビとか、広告、芸能界の話に耳を傾けなくなってきています。彼らが何かの音楽のファンになったら、コアな支持者となります。そういう人々で細分化され、皆さんがそれぞれとなり、趣味の合う人だけで集まります。その方がおもしろくなってきています。
これは過去のライト路線に早く見切りをつけ、自力をつけなさいとお勧めするものでもありません。ライト路線もいいんじゃないですか。たまには。しかしますます以前よりも自力が求められるようになってきているのは確かです。演奏会とか開くと聴衆は年配者が多くないですか。過去に生きてきた人たちだから過去の原則で行動しているのです。こういう事を言うと怒る人もいると思うのですが、そういう時代も過去にあって、それはそれでいいと思うのです。彼らは現状必要なパトロンですしね。若い層はファンになっていないと来ないかもしれませんね。国民全体として文化の土台が確立されるのではなく、コミュニティ社会になっていきます。業界が土台を与えなかったので、彼らは探し求め、そして見出すでしょう。儲かる儲からない系の仕掛けられたビジネスに右を向いたり左を向いたりしなくなります。その時に、演奏家としてどういうものを提供できるのかを考えることになりそうです。
こういう流れが来ていたところにコロナも来ました。これは無関係ではありません。コロナはそもそも人為的なものです。自然界のゲノム配列ではありません。インドが発表し、数日後に撤回して自然界普遍の配列だと言い換えましたが、自然の何と同じなのかは示しておらず今尚謎のままです。ウィルスはミスして漏れたものでもありません。このあたりはネット上にも多数情報があると思いますので、ここではしません。しかし結論はおそらくどこにも書いてありませんので、間を飛ばしてそこだけ触れます。これはあらゆる「グローバルチェーン」を破壊するためのものでした。例えば物資であれば、中国の安いものが世界を覆い、世界の工場が閉鎖して富が偏りました。これは中国も含めて世界にとって難しい状況です。もう少しバラバラの状態で緩く繋がっている方が良かったのです。日本の戦後の芸能の話もしましたけれど、世界が分断するとこの体制が不要になります。それで攻撃されています。蓄積した問題は中国で大きく勃興したのは確かながら、危うさを増してきたのはソ連とベルリンの壁の崩壊以降、もっと遡ればおそらく大英帝国まで行き着きます。コロナでリセットを目指しています。そのためコロナは「終わらない。終わらせない」という識者もいます。そしてコロナは茶番だと言って多くの欧州人が反対デモしています。コロナは多くのものに打撃を与えましたが、それには芸能や伝統も含まれます。
元々、芸能の根本的な再編を目指す過程でさらに打撃がきたので、その爆震でおよそ有力とは言い難い隅の方の我々二胡関係者もかなり影響を受けたであろうと思います。まあ、しょうがないのかなと、そう思っていたのですが、どうも様子が違う、特に飲食とか旅行業界が厳しいということで国が対策したり、それでも苦しいとか言われていますが、苦しくないところもあります。言わないし報道もされないので目立ちませんが、あんまり影響を受けていないところもあります。先日、まだ冷蔵庫に残っていますがうちにカメリヤのドライ・イーストがありました。これはパンを作るのに必要なのですが、コロナになった時に物資を蓄える意味で1つ買ってあったものでした。しかし、そもそもパンを焼くということを全く理解しておらず、とりあえず非常食を買ったという呆れた感覚で、後でよくみるとオーブンがいることに気がついたというお恥ずかしい有様、これは困ったなと、使わないと発酵しなくなるなどとも脅されたので、パン以外で考えようかと、ネットで調べたわけです。そうすると、オーブンは必ずしも要らない、バーミキュラがあったらパンが焼けると、これはあったので「よし、焼いとくか」と、道具がない状態で人力で生地をこねるので往生はしたものの、意外なことにとりあえずいけたのです。この経緯で、検索で出てきたのが岐阜のパン教室だったのですが、これがもう何年も募集打ち切りなんです。開始以降1ヶ月で停止、そしてコロナになってそろそろ1年経とうとしていますがまだ停止中です。この状況なのですが、どう思われますか。つまり二胡教室でも、コロナになったので教室をしばらく休みますという生徒さんは少なくなかったと思うのです。そこへ食品となるとマスクをせずに食べたりしますよね。だからなおさら休むと思うのです。今どきYouTubeとか動画で幾らでも教えてもらえて、素人がおっとり刀で軽く焼けてしまう、それぐらいのものなのです。習いに行くほどのことでもないのです。二胡は習った方がいいですがパンはそうでもありません。必要性がそれほどあるとは思えない、しかも田舎ですよね、報道に毒されて恐怖を抱いた老人が多い環境でパン? 行かせてもらえないのでは? と思いますよね。決してハードルは低くはないと思われますね。ところがまだ募集停止で、休んでいるのかなと思ったら、どうもそうでもなさそうです。何で生徒がいなくならないのか。理由ははっきり言い切れないですが、まず先生が上品なんです。二胡の方に戻って考えると、最初に入学金を払ってますよね。安易にやめるともったいない。人間関係もできてきていますよね。しがらみもあってやめにくくなっています。そして苦しいことやいろんなこともありますが我慢して続けています。それが必要なことだと思ってやってきています。しかし何かきっかけがあった時に「少し休もうか」となります。しばらくします。復帰して、あの先生の顔をまた見るのか、そこでフェードアウトを選択される生徒さんも結構います。ということは、人間心理が変わってきているのです。今までは頑張っていたのです。疲れても頑張っていたのです。だけどもう無理なんです。ところが、先生に癒やされるなら、話が全く変わってくるのです。世の中で人間関係も希薄になってきていますし、孤独な人も多いのです。それでコロナだからこそ行きたいのです。この理由でむしろ生徒が増えたところもある筈です。まさに地殻変動です。今までだと、有名とか、いろんなアドバンテージが利用できましたが、その貯金は使い果たしました。そういう要素で選ばれることは今後減るでしょう。そしてコアなコミュニティが作れるところだけ残ります。緩やかに変化すると思われたところにコロナで一気に加速しました。
このことで思い起こされるのは「砂上の楼閣」ということわざです。蜃気楼のことではありません。この出典は、キリストの山上の垂訓、その最後の比喩でした。キリストは集まった群衆に、人間の本質と生き方を教えました。群衆は強制されて来たわけではありません。自ら進んで学びに来ました。そしてキリストの教えに感嘆しました。ですからキリストは彼らが教えを当てはめることはわかっていました。その上で、彼らが成すであろう立派な行いを建築になぞらえました。なるほど立派なものですが、それが岩の上にあるのか、または砂の上にあるのかは、試練の時に明らかになり、砂の上の楼閣は崩れ去ると言われました。そこで講話は閉じられています。穏やかな時はすべてが比較的順調です。しかし何か1つの物事だけで本質を暴かれるように崩れ去る楼閣があります。我々の住んでいる住宅も、地震が来たら欠陥があるかどうかわかります。それまでは調べなければわかりません。対策しなければ崩れます。その対策とは何なのでしょうか。今まで以上に、人間性が求められるようになってきているのでしょうか。これまではパワハラがどうのとか徐々に環境改善が進められてきていましたが急速に変わりそうで、おそらく面接の主要条件は人間性になるでしょうね。変な人は疲れますから。小店のコンテンツも時に、思いついたように大陸をチクリと揶揄して、さて次に行こうかみたいな、今後はこういう行為も反省せねばなりません。また忘れてやるとは思いますが。
こうしてみると、求められているものが重くなってきてどんどん難しくなってきている感があります。グローバルな世界が閉鎖すると、それが人の心理にも影響があるのか、ローカルでも小じんまりになる、そうなると幾人もの先生方がおられる大きな教室は難しくなりますね。もっとマニアックになっていくのでしょうね。別に今までが悪かったわけではないので変える必要はないのですが、志向の変化で世の中がそういう方向に向かっているように見えます。軽いものがなくなると、最大公約数的支持者が得られませんので、テレビと芸能のあり方は激変します。テレビはなくなるのでしょうか? スティーブ・ジョブズは「なくならない。可能性はある」と言っていました。しかし彼は亡くなりました。彼が想定していたテレビがどういうものか詳しくわかりませんが、それはネット上にすでにあるようにも見えます。ラジオは復活するかもしれません。音が良いので。古いやり方への回帰もありそうです。世の中の多くがマニアックになり、大量生産消費は過去のものになりそうです。
そこで「コミュニティ」というものですが、これが具体的にどういうものを指しているのか、マニアが集まった小規模な集団というあり方はこれまでもあっただろうし、別に世間全体に影響を与えなくてもやりたい向きだけやればいいわけで、そうであれば単に何かに拘った人らの集まり以上の意味がありそうです。欧米の実力主義では弱肉強食による自然淘汰で純度を高める、それによって競争を勝ち上がる意味があります。より結果を出せる人間を獲得し、チーム内外で競争することによって強固な組織を目指します。これは勝てるのですが、勝った時によく見ると人を蹴落とす利己主義な人間ばかりが残り、何かの試練があった時に足元が砂であったことに気が付きます。そこでマルクス主義が生まれましたが、この最大の成功例は戦後の日本企業群だと言われています。年功序列とか皆同じといった思想が中心です。優秀な人材の強みを活かせないのでこれも疑問視されるようになっています。だったらどうしたらいいのか、経営学を中心に研究されていて、その最高の結実がシリコンバレーです。彼らは独り勝ちが多くあまり競争していません。Googleはアンドロイドのライセンス料を取っておらず、Appleの携帯は高価格でOSも独自なのでライバルがほとんどいません。競合は買収統合なのでこれは争わない1つのやり方です。フリーのアプリを作成してばらまく、オープンソースというコミュニティに対しても、他の業界ならこういうものは素早く潰しますが、その逆に資金援助しています。やる気のある人材を見出して獲得すらもします。きちんと仕事をしていればどことも敵対する必要がない、やるとしても特許訴訟ぐらいでこれも敵対というより権利の線引で、法廷で向かい合っているのに仕事は組んでいたりします。しかも同じ人物が取締役として両方の会社にいるという驚くべきこともあります。引き抜きなどで人材も行ったり来たりします。社内で競争もなく、しかも出勤は自由だったりします。天才が集まっているのに個人主義ではなくユニットのパフォーマンスが重視されます。競争ではなく、周囲の人と協力して世の中のために何ができるかを重視します。このやり方で強固な組織を構築し、肥大化しても大企業病には侵されていません。あまりにも盤石なので独占禁止法で制裁を受けようが全く揺らいでいません。傲慢になってそのうち滅びるだろうと夢想する世界の人々を尻目に株価を上げ続けています。彼らが岩の上に建築したことは明らかです。そして彼らがやったことと言えば結局、山上の垂訓に記されていることをそのまま実行したに過ぎないのです。この原則でいくと、向こうの人はほとんど個人主義だと言われますが、協調性がないと大きく減点を喰らいます。それなら発達障害はどうするのでしょうか。これらの人は飛び抜けた才能があり、また性格が必ずしも悪いわけではありません。そこでドイツのフォルクスワーゲンは彼らを扱う専門家を養成し、彼らは彼らだけで仕事をし、別の部門が彼らにアクセスする場合は必ず専門家を通さねばならないと決まっています。驚異的に仕事ができるのでかなり力になっているようです。
おそらくこの成功例を受けて、強いユニット、高い成果を上げるコミュニティというものが理解されるようになり、様々な業界で静かに再編が進んでいます。「私は年寄りだから関係ありませんよ」と言われる方もいるでしょう。しかし年配者というのは最も経験があります。無価値である筈がありません。もちろん、時間が経ったことで砂の上にいることが明らかになる場合もあるので無為に時間を経過しているものまで評価するのではありませんし、価値をもっていなければ生き方を反省すべきです。価値の中で最も重要なのはキリストによると謙虚さです。キリストは後日、ある人から「律法で最も重要なのは何ですか?」と問われたので、律法に書かれている一節を引用して回答に替えました。それは「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」でした。それは深い意味ではやはり年配者の方が長じていることが多いのではないでしょうか。こんな人ばかりであれば、コロナで死ぬかもしれなくても、教室をやめようとは思わないものです。我々個々がより良い人であるのは当然、何かの経営者であるとか管理者であれば、人事において人材評価を間違うときちんとした人はいなくなります。そして我々が築き上げたものが間違った人たちによって崩されることがあります。武田信玄が「人は石垣」と述べたとのことですが、人間がすべて岩ではない、砂もいます。全文はこうです「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」。山上の垂訓と同じことを言っています。結局、真理はこのあたりに集約されそうです。知識があるとか、専門家である、技術がある、何でもできても砂とは共に仕事してはいけない、そういう人と一緒ということは自分も同類なのです。自分が岩の上にいれば、砂状の土地を好む人とは噛み合わないので仕事ができない筈です。より良い人は世の中のために何ができるかを考えるので、結局優秀です。結果が後からついてきます。この原則に基づく集合体を現代の概念で「コミュニティ」と呼んでいます。そういうものしか残らないように揺さぶられています。色んな人がいるのでより良いコミュニティの構築は難しいです。そういうところに属するのも容易ではありません。維持するのも簡単ではありません。組織を持つということはそういう仕事をするということにほかなりません。そしていよいよ、そういうことを考えておかねばならなくなってきているのではないかと思います。