魅力的な二胡演奏ができるようになるには、どうしたらいいですか? - 二胡弦堂

 


京劇俳優  二胡のような擦弦楽器は、究極的には人間の声の代役に過ぎません。声ほどすばらしい楽器は世界広しと言えども他にはないとされています。そのためおそらく二胡は沖縄から大和(日本)には定着せず、三線、三味線によって声をバックアップする方を好んだようです。胡弓は日本民楽ではほとんど忘れられています。以前は中国でも似たような状況で、こちらでは琴を使い、二胡は地位の低い楽器だったようです。重要な楽器として認識されるようになるまで多くの苦労があったようです。このあたりは劉天華の改革などが知られています。

 擦弦楽器はいかに声楽のように歌えるかが重要です。

 楽器の学習と音楽のそれは全く別のものである、という点も理解する必要があります。そのため、二胡も含め世界の多くの教則本は、どちらの要求も満たせるように工夫されています。しかし利用する側がそのことを無視すると意味を為しません。

 とにかく音楽を聴くに勝る学習はないので何でも聴けるならどんどん聴くべきです。「私にはレコードが命から二番目位大事なので、戦時中にも荷馬車に積んで疎開先をあちらこちらと持廻ったので、今でも多少残っているのは嬉しい。・・とにかく、私にはレコードが先生でもあるので、月謝を払うつもりでよい新譜が出ると毎月求めることにしている」- レコード夜話 宮城道雄。"二番目ぐらい"という言い方がいかにも宮城検校らしいという感じがします。2番目じゃないということを言外に匂わせています。宮城道雄は盲人です。奥様は目が見えますが最初は箏の弟子で、結婚してから夫の"目"になることを決心したようで、そのため箏を演奏しなくなりました。ただ何も言わず黙ってそうしたようです。奥様の気持ちを尊重して自分の命は1番にせねばならない、仕事を果たすことによっても奥様の犠牲に答えなければならないのでレコードは2番目と答えたのですが、実際には違うということを「ぐらい」という言葉で表現しています。しかし普通、演奏家たるもの、レコードよりも楽器の方が重要なのではないでしょうか。いかに録音が軽視できないか、ということを感じさせます。

 東洋の音楽は感情表現というものの概念が西洋とは異なっています。そもそもが楽曲の構造も異なっていますので同じように扱うことはできません。それで当然ながら東洋の音楽も聴かなければ東洋の音楽は理解できません。西洋では楽譜に対する忠実性が重んじられますが、東洋では基本的な音のみが書かれている伝統譜が多くあります。その作品が生まれた地方の音楽をよく聴いていなければ、どのように演奏するのかわかりません。

 巨匠たちは高みを目指す戦いで最も厳しいのは、自分自身との戦いである、と言います。1930年代にウィーンで圧倒的な名声で頂点を極めていたブルーノ・ワルターは、演奏会の前にしばしば楽屋の片隅で背を向けてじっとしているところを目撃されていました。それを見た周囲の人々は「モーツァルトの霊と交信しているに違いない」と考え、この話は伝説的に広がっていきました。ある記者会見の時に、本当にモーツァルトの霊と交信できるのか尋ねられたワルターは、その見解を即座に否定し、こう言ったと言われています。「私はあのようにして、自分が小さなものであることが理解できるよう、いつも繰り返し神に祈らなければならないのです」。当時の権謀術数に満ちたウィーンでこのような考え方の人は希で、だれもが偉くなりたいと考えていたので、この回答は当時のウィーン人にとって非常に衝撃的だったと言われています。成功できるよう、大金持ちになれるよう神に祈る人は幾らでもいましたが、自分が小さな存在であることを忘れることがないよう助けを求めて真剣に祈る人はほとんどいなかったのです。神以前に、巨匠になるぐらいの人材ともなると生き方が全く違うことがわかります。

 晩年に「最も神に近い」と言われ、圧倒的な成功を収めたオットー・クレンペラーは、あるジャーナリストとの対談で、彼が到達した高貴さと才能との関連性について質問され、その時にクレンペラーは自分の言葉では回答しようとはせず、聖書を取り出してその1節を朗読して黙ってしまったと言われています。その箇所をリビング・バイブルで引用するとこうあります。ひらがなと漢字もそのまま保存して写しておきます。「私は自分に言い聞かせました。これまでのエルサレムのどの王より、いろんな勉強もした。どの王より知恵や知識を得た。私はりこうになろうと、一生懸命に努力しました。ところが、今ではそんな努力さえ、風をつかまえるようだとわかったのです。りこうになればなるほど、悲しみも増えるからです。知識を増すことは、悩みを増すことにほかなりません。」- 伝道の書1:16-18。これは、至高の芸術家が直面する苦悩をよく表しています。

 難しい話です。つまり、これらを要約すると、結局のところ「普通の人」であれば良いのではないかと思えます。これを仏教では「解脱」と言います。目標は人によってそれぞれです。名声や経済もありますが、結局は普通から逸れると幸福にはなり得ないということなのかもしれません。優れた芸術家の登場は、当人にとっては苦悩を意味するとしても、周囲の人々にとっては大きな恵みです。敢えて茨の道を選択する人は、立派な道を選択したのであり、そういう人が多く出てくれば良いと願わずにいられません。

 身につけるのが難しいものというのがあります。体感で憶えるものです。このような分野に遭遇した時に理解しておかねばならない基本原則は「起きている時に取り入れ、睡眠中に定着する」ということです。人間は睡眠中に咀嚼します。2人の人が何かを1ヶ月学びます。1人は1ヶ月履修したばかりです。もう一人は1年前に1ヶ月学んで辞めました。レベルが高いのは後者です。学んでから365回睡眠しているからです。

 このことを踏まえると、1つ1つ課題をクリアして前に進むのは進歩が遅くなります。対して20%ぐらいしかできていない状態で回遊するのは非常に早くなります。1曲を100%の完成度に達するまでやるのは0からだとかなり大変です。それより5曲を20%で一巡は結構早く達します。1曲分と5曲分の睡眠の蓄積、このことを考えると、なるべく早く周回したいという考えになります。しかしだからといって、あまりにも適当というのは感心しません。何の蓄積も生まないからです。初心者と高手が見えるものは違います。初心者は表面的にしか見えません。それで結構です。その見えているものをとにかく押さえます。するとその上が見えてきます。それはパスして次に行く、これを繰り返します。DNAの構造は? 蜘蛛の糸の構造は? 鷹が大空に舞い上がるのは? 全て螺旋、これが自然の摂理です。これが強固なものの構築法です。

 このようなやり方では、いつまで経ってもきちんとできるものが生まれないのではないでしょうか? なぜなら多くの作品を薄く積み上げるからです。どれを取っても100%はありません。全部中途半端です。そのため、これまで何も達成したことがない、コンプレックスのある人にはこのようなことはできません。だから常に遅れをとります。ブレイクスルーがない。ある日、朝目覚めての突然の覚醒を体感したことがない。それで幼少時の教育が大事なのです。もうこのようなことは本人次第というしかありません。

 もう一つは、20世紀後半ぐらいから言われている原則ですが、ものを読むとか、譜を理解するというのは、その深さは対人関係と不可分ということです。コミュ障は読解力がおかしいです。人の話と人が書いたもの、同じだからです。人に感情移入できない、意味が理解できない、それで美しい音楽? あり得ません。ですが、何がしかの問題点は誰しもありますので、それで難しいのです。性格が悪いとその分、読み取れるものは少なくなります。自分の行為は全て自分に帰結します。しかしこの原則を全体主義的に適用した結果、巨匠が出なくなったとも言われています。人間が規格化されているからです。とても難しいことで尚、研究が進められています。