光・弦・堂☆店主Web対談 - 二胡弦堂

 


 先日、光舜堂の西野社長と対談した内容が 光舜堂ブログの方に掲載されました。お題目は「中国人の考える良い楽器、日本人の感じる良い楽器」でした。光舜堂のほぉさんに編集していただきました。


二胡を愛する皆様ご無沙汰しております、ほぉです!
弦堂の店主 三山さんと、光舜堂店主 西野のWeb対談がついに始まります!
「このお二人の書くブログは、日本二胡界の宝物です」と呼んで下さるほど楽しみに待たれていた方々も少なくなかったそうで、大変お待たせいたしました!
なにしろ、この宝物、二人のやり取り原文のまま誤字脱字と改行の修正無しでは、恐ろしく読みにくい!!無編集掲載は、脱落読者が続出するのは明らかで!
なので、それこそ持ち腐れてしまうと危惧したワタクシ、立ち上がった次第です。いえ、物理的には数分間しか立てないんですが (笑)
とにかく、勝手に名付けて、『光・弦・堂☆店主Web対談』!!
どうぞお楽しみくださいませ。


【弦堂→】西野さんが二胡を作られるようになって10年以上になられますけれども、西野さんが最初に作品を発表された頃から時々うちに「西野二胡はどうですか? 光舜堂はどうですか?」といろんな方から尋ねられていました。

それでだいぶん前から興味があったのですが、神田の店舗で初めて見せていただいたのが去年でとても時間がかかってしまいました。

10年以上前というと中国二胡の分類すらよく理解されておらず、また個人的には古楽器を見つけるようになったりとか、まだそれぐらいの時期でした。ですから、あの頃に見せていただいてもはっきりわからなかったかもしれません。

二胡は中国の楽器ですけれども、それを日本で製造するということで、何か意識されていることはございますか?


【西野 →】最初の頃は、中国の楽器というのは、あまり意識していなかったですね。

それより、亡くなった母親の遺品として渡された楽器が、見ると、皮が少し亀裂が、入っていて、これは直さないと、ということに気持ちが行っていましたから。

それにはニ胡というのはどんな楽器かと、安い蘇州系のニ胡を買ってきて、分解するところから始めましたね。とにかく皮が手に入らなかったですね。沖縄の、三線作っている人を紹介してもらって、端切れを、分けてもらったのが始まりでしたね。


作りばじめると、面白くて、しかし、皮張りは二年かかって、やっと、なんとかまともに張れるようになりましたね。

なんとかこれなら、と思う楽器を持って中国屋楽器店さんに持って行ったところ、いきなり「これ、買います」と、15万渡されました。驚きましたね、売りに行ったわけではないので。

そしたら、オーナーの、ショウホウさんが、「これは、日本人の作ったニ胡として記念すべきものですから」と。

でも、「これは、単なる真似です。良いところも悪いところも中国の楽器と変わりない。折角これだけの技術があるのだから、日本人が作ったニ胡、というのを作って下さい。ニ胡は、地方にによって色々な音と形があるのです」

と、言われてからですかね、中国の楽器というのを意識して調べ出したのは。


【弦堂→】ショウホウさんは古い珍しい二胡をコレクションしておられますよね。博物館が収蔵しそうなタイプのお宝がお好きな印象ですので、西野さんの最初の楽器はまだ秘蔵しておられるかもしれません。もし最初に持ち込んだのが中国屋楽器店でなければ消息不明になっていそうです。

前に西野さんが「皮の張り替えで楽器の音は変わらない」と言われた時はかなり驚きました。「そんなはずはない」と。

その直後にお客さんが来店され、その方は皮張り替え済の二胡をお持ちでした。リサイクルシュップで買った後、皮を張り替えておられましたが、その二胡そのものがどういうものかわからず悩んでおられました。

それで「上海の二胡です」とお答えしました。そして楽器の特徴のお話を少しさせていただいて、お借りして音を確認すると確かに上海の独特の音でした。

「張り替えてあるのに上海の音が出ますね。もしかしてこれは西野さんが張り替えられたのですか」と伺いますと西野さんはそうだと答えられました。

西野さんはあれが上海二胡だとご存知なかった筈なのに何で楽器の音をそのまま引き出せたのか、そういうことなのか、とかなり衝撃を受けたのを憶えています。

これは中国では「できない」と言われます。名工は例えば蘇州人であれば、上海や北京の二胡は扱えないと断ります。

そこで「どんな風に悪くなるのか」といった興味も湧いてきます。工房に押しかけ無理やりやってもらうと確かに良くないのです。おそらく自分たちが古くからやってきたやり方からブレないことで、対象に合わせるということをやらないということなのかもしれません。

受注依頼も「はいはい」と言って実際にはその通りにやらなかったりするぐらいですから。こういう過程を経てですから、西野さんの皮には驚きましたね。それまでの概念が根底から変わりました。中国に送って皮を張り替える面倒が要らないと思いましたね。

ですからこれは大変な技術だと思います。また一方で、一定の水準に達している蛇皮張りは楽器の個性に影響を与えないということになるのでしょうか。木部の工作で個性が決まるのでしょうか。


【西野→】蛇皮は、基本的に木の型で成形していきます。同じように見える蘇州系でも、それぞれの工房で、型が違いますから、違う形の二胡には張れないでしょうね。形が変わってしまいますから。

私の場合は、お預かりした二胡と同じ形を木で作って、それで成形していきますから、同じものが出来上がります。ですから元の二胡と音は変わりません。

多少皮の厚みがそれぞれの皮で違いますから、多少は倍音の変化はあるでしょうし、張り替えたばかりは皮が硬いですから、それで違うという方もいらっしゃいますが、半年も弾き込むと、前の音と変わりないと言ってくれる方が多いです。


【弦堂 →】もしかすると、西野さんのお母さまの楽器は日本製という可能性もあります。もう江戸あたりから二胡と月琴など人気の唐物は国内生産していたらしいので。

輸入はあまりにもコスト高だったようですので。もし日本製なら、それも博物館級は間違いないでしょう。正倉院の楽器はもっと古いですが、中国の古い音が残ったものですので日中の研究者が合同で調査しています。レプリカを作って研究を進めるのですが、そのレプリカが現在、奈良国立博物館で公開されています。

正倉院に二胡はありません。しかし同じ意味で江戸の二胡にも同様の研究価値がある筈です。時代が違っても。

ところで、西野さんの二胡は中に仕切りがありますね。そしてこれはお母様の二胡に付いていたと言われていました。

この構造はこれまで大陸で一度だけ見たことがあります。しかしその二胡は皮ではなく薄い板で共鳴させていました。手間のかかることなので安価な楽器ではなかった筈です。かなり凝った構造でした。

古楽器は結構な数を見てきましたが、そのようなものは他に見たことがありません。ですので、その珍しい楽器は民国期に日本人が持ち込んだものである可能性があります。

それは北京・新街口のある楽器店の軒先に看板代わりに釣ってあってもうボロボロ、無残な姿を晒しています。今でもある筈です。弦堂のどこかに写真を貼ったような記憶があります。演奏は無理です。

日本人は蛇皮の音が嫌いなのかもしれません。琉球三線は蛇皮ですが、三味線はそれを猫に変えましたから。それでその個体は板だったのではないかと推測しています。中国の二胡はたくさんあるので研究対象にはなりませんが、日本の二胡であればそれはかなり研究価値がある筈です。


【 西野 → 】先日の、私が譲り受けた母の二胡が日本製の二胡かもしれない、という弦堂さんのご推察に対するお返事ですが。それもあり得るかもしれませんね。父も祖父も仏像を彫っていましたし、特に父は、音楽が大好きでしたから。それに二胡なら技術的に作れたかもしれません。ちょっと確認しておきます。

私の作る西野二胡の構造は、母の持っていた二胡とかなり近いですが、更に進めて、アフリカのジャンベに近くしてあります。普通の二胡の木の、倍の厚みの木から削り出していき、棹より前がお椀状態になっています。そのためでしょう、全音きれいに音になりやすいです。

蘇州系や上海系の棹の前の部分の削り込みというのは、その意味もあるのではないでしょうか?それを更に進めた形と言えると思います。


【 弦堂 → 】それぞれの工房で型が違うのですか。

大きさが大体同じだからという基準で型を共用すると多少なりとも違うものになってしまうでしょうね。そうしますと、木部の方をそのままコピーすれば同じものができそうですが、そうでないのは不思議ですね。

例えば、王根興の柔らかくも厳しい響きは弟子らの作品からは出ていません。手作業での彫りが重要になってくるということなんでしょうね。

お母様のお持ちだった二胡に、蛇皮と棹の間ぐらいに仕切りがありますよね。真ん中に穴が開いた仕切りです。これについて西野さんは以前に、中国の古い楽器はこれが入っていたと中国の専門家に聞いたと言われていましたが、大陸ではそういう古楽器は全く見つかっていないのです。

1つを除いて。ですからその専門家がどうしてそういうことを言ったのかわからないですね。この構造は日本人が入れたのではないかと思ったのですが。


【 西野 → 】王さんの楽器は、確かに皮の技術なのでしょうね。特に裏の削りは、個人技術としか言いようがないですね。そういう点でも、皮張りは奥が深いです。

専門家というのは、中国屋楽器店の故ショウホウさんなのですが、私の持っていた古いニ胡を見せたときに、ショウホウさんも、古い物で、同じように中に板の入っている物を見たことがあるとの話でした。

もしかしたら、弦堂さんの、見た物と同じ物なのかもしれません。もし、その、大本が日本製だとすると、大変興味深いですね。

日本には、昔の中国の楽器が、比較的古い形のまま残っていることが多いように思うのですが、例えば、琵琶のように、筑前と、薩摩とありますが、あれはどちらが原型に近いのでしょうか?

少し話が飛びますが、以前私の工房に、筑前琵琶を作ったり修理したりしている方が見えたことがありました。桑材の良いものを探しに木場までいらして、そこで、私の工房を紹介されたのだそうです。その方は、なんとイタリア人でした。もうその方が最後のお弟子だと訊きました。余談です。


【 弦堂 → 】 そのイタリア人はドリアーノ・スリスさんですね。外国人が継承している伝統文化は他にも結構あるようですね。継承されなければ、日本の古い二胡も分からなくなっていますし、難しい問題です。


【 西野 → 】話をちょっと戻しますね。二胡は、各工房で大きさの違いがありますね。特に違う部分は、6角の角のところの処理が違いますね。かなり削って丸くしてあるところもあれば、角が、ほとんど削られていないところもあります。

皮を張るときに、あまりピン角だと、皮が切れやすくなります。また、皮を、張るところの傾斜角度も違います。これ等によっても、張り具合は、変わると思います。


【 弦堂 → 】木材の皮に接触するあたりはかなり重要なんでしょうね。日本で見つかった古楽器、日本製とは確定していませんが、そういうものが和風の音を奏でるのであれば、その工作も研究する価値がありそうですね。

琵琶は雅楽で使うものが奈良時代から変わっていないそうです。筑前や薩摩のものは江戸以降の比較的新しいものだそうです。

日本の場合は古いものを残す一方、発展もして、それらに明確な区別をつけている特徴があります。より良いものを求めて改良するのですが、古いものもそのまま残す傾向があります。そこへ二胡となると、日本の楽器として定着しなかったためにほとんど分からなくなっています。

大きな流れがなかったので、胴の中の板の仕切りについても日本の二胡がそうだったとは一律に言えず、ある個人、あるいはある地域の製作家がそういう工作をしていただけだったのかもしれません。

このことを広く知っていただくと、現物をお持ちの方が結構見つかるかもしれず、その由来も明らかになるかもしれません。そして昔のまま復刻できると素晴らしいでしょうね。日本の音楽に合うかもしれません。


【 西野 → 】私は二胡を弾いてみて、西洋の擦弦楽器などより、感情移入しやすい楽器だと考えています。

体の中に抱え込むように弾く姿勢もあるのでしょうが、指板の無い分、発音は悪くなりますが、手の感覚がそのまま伝わるような気がするのです。むしろ、その感情表現がしやすいところが、ゆったりと弾いた場合、「癒し」と感じられることも多いのではないかと想像します。

日本人の二胡愛好家が二胡という楽器に求めているのは、この癒しの部分が大きいような気がするんです。ヴァイオリンなどに比べて、弦の長さが長い分、音に幅が出ますし、むしろチェロなどに近い感じもあります。

中国では、二胡に「癒し」というのは求められるものですかね?


【 弦堂 → 】中国人は自国の伝統のサウンドを「毒」で表現します。「癒し」に相当する概念は中国にはないので、治癒などと訳した上で、日本文化マニアに解説するサイトなどもあるぐらい彼らにとって難解です。解説もかなり無理があります。そもそも「癒し」という感情が存在する意義を大陸人に理解してもらうのも簡単ではないと思います。大陸では音楽にどれぐらい毒気が満ちているかで評価します。妖艶の方がわかりやすいかもしれませんが、もっと多くのものを含んでいますので、毒というより他ありません。


【西野→】それは強烈ですね。毒という表現は日本の二胡愛好家が聞いたら、引く人が多いのではないでしょうか・


【 弦堂 → 】そうですね、大陸人が癒しを理解できないのと同じぐらい、毒という字で表現するのは日本人には難しいと思います。生徒さんとか一般向けには言えないと思いますね。そこで毒そのものを翻訳しようと試みたのですが、置き換える語がないんです。無理に訳すと、癒しが治癒になってしまうぐらい不自然です。概念がないから適切な言葉もないのです。しかし先生方には事実をそのまま提示すべきということから、薄められた情報はそぐわないという事情でうちの方でははっきり「毒」と書くようにしています。

癒しとは、その前提として疲れているとか、何かネガティブな感情が先行している上で、時間とか何か余裕もないと「癒し」にそれなりの重みがありません。ですから、特定の条件が揃っていないと癒しなるものは成立しません。
「癒し」は豊かな中産階級独特の感情だと思います。これを中国に求めるのは難しそうです。

ですから、日本では中国と別の捉え方で、「癒しの楽器」と見做しても、それはそれで良いのではないかと思います。
しかしそれをそのまま中国音楽にあてはめて見るとよくわからないとなりそうです。
その辺りの齟齬を滑らかに繋ぐのも老師の技量なのかもしれません。
毒も、毒の字から入るからエグいのであって、音楽から入ると問題はないと思いますね。

しかし日本で例えば「毒に満ちた二胡」などという変なキャッチフレーズよりも「癒し」の方が受け入れられやすいのは間違いありません。毒は勘違いされます。それで癒しがキラーワードとして飛び交い、やがて二胡とは癒しであるという島独特の概念が完成していったのではないかと思います。

例えば琉球音楽に対して、癒しという角度から捉えるのは間違っているとは思いませんが、同じように大陸音楽に対して見るのはどうなのでしょうか。ごく一部しか見ていない印象があります。大陸音楽は麻薬のような惑溺性が主な特徴であると感じられます。

テレサテンはわかりやすい例かもしれません。あれは癒しではなさそうですが、毒はあります。大陸でもかなりの人気があって不道徳、党の道徳基準にそぐわないという理由で禁止されていたので、当時の大陸の支配者と比較して「昼は鄧小平、夜は鄧麗君(テレサテン)が支配する」と揶揄されていた程でした。

日本独特の感覚として癒しを求めていくのは結構ですが、大陸を理解しようと思った場合、毒という概念抜きには何もわからないように思います。
しかし生徒さんには、こういう難しい話をするのではなく、徐々に大陸の魅力に触れていただけるように指導したいですね。まずは感覚でわからないと、理論的に言われてもはっきりわかりませんからね。

西野さんは、癒しという概念を念頭に置いて二胡を制作されることはございますか?
おそらくですが、日本人中国人共に、求めているのは日本的な音だと思います。だけど、これをはっきり言ってしまうとなぜか敬遠されそうな気がします。
嘘でも「癒しの二胡」と言ってしまった方がセールスは良いでしょうね。

そして、板胡に近づけた方が人気が出そうですが、そこでも「板胡からインスピレーションを受けました」的なことを発言してしまうと敬遠されそうです。
求めている人たち自身が何を求めているのか分かっていれば、間違っても「癒し」という言葉は出てこないと思いますね。大陸音楽で一見、癒しに聞こえるものは、あれは陶酔感だと思います。見る人の文化的背景によって見え方が違うのだと思います。

社会が大きく変化して、生活の概念が変わっていく過渡期にあって、求められる音も変わりそうです。ですから、最初は癒しから入るのがわかり易ければそれで良いような気はします。

 中国は漢方の国なので、『毒』と言っても単純な捉え方はしないように思います。中国人の家庭に呼ばれて食事をすると、まず薬効の話が出ることが多いです。

 その中には解毒作用に関することもありますが、毒は毒を以て制するものなので、薬効が強いものはある程度の副作用もあり、そういうことが話題になることもあります。その場で食べる家庭料理に対して、普通に話しますので最初は驚きます。そして、果物を取っても、やはり薬効について講釈します。

 ですから、中国人に『毒』というキーワードを使った場合、まず薬のようなものを連想するのではないかと思います。毒は自然界のものであって、薬はあまねく毒だと言われたりもしますから。

 ハブ毒のような殺傷能力の高い猛毒でさえ、良質の薬に変えます。これほどまでに人民の医学的知識が豊富であれば、毒なんて単語を放ったぐらいで、誰も驚かない、意味するところをすぐに理解するのでしょう。

 良薬、口に苦し、という言葉もありますが、苦味や痺れるような辛さなど刺激的なものの惑溺性に心酔して、体の奥底から湧き上がってくる欲求に抵抗できず、食べすぎて救急車で運ばれたりするぐらい、天然の食材が与えるパンチ力を知り尽くしています。

 ここに毒という言葉を持ってこようものなら、侵されてノックアウトを喰らい幸せに満ちた夢心地で昇天を連想するのではないでしょうか。音楽もそういうものだと捉える筈です。

 1文字ですべてを要約して表わすのは何千年も歴史がありますし、大陸人が言葉の第一義的な意味だけを捉えて、それ以上考えないということはないでしょうね。本物はシンプルなので、純度が高まると物事が自然に単純さへと収斂します。それを山水を眺めるがごとくに、一文字に表わす偉大な詩人たちに倣うのを好みます。

 中国人ほど、文字の力を信じている民族はほかにないと思います。このことは単に中国人の文化や気質だけでなく、必要性もあったのは間違いありません。欧州は、イタリア語、ドイツ語、フランス語など別の言語で別れていますが、中国もおおまかに省によって、同じぐらい言葉が違って、全く通じません。しかし紙に漢字を書くと通じます。日本人と中国人も同様です。アルファベットでは不可能なことです。

 漢字一文字の力を大切にすることは、中華民族の一体感にとって生命線です。単一民族ではないので、一致することが困難です。気質や考え方、文化も地方によって違います。

 そこで、メンツを重視することで、限りなく問題の種を減らします。相手がよくわからなくても、尊重さえすれば、大事には至りません。

 中国というと、信用を重視しないとか、製品がすぐ壊れるとか、いろいろ言われます。しかし日本で同じことをやるとやっていけません。中国は大丈夫なので、改善されていません。なぜなら、メンツ重視で悪口は極力避けるから、ネガティブな風聞が広まるというのは基本的にないのです。

 島国人のように陰湿ではないので、悪い話が広まるというのは相当な状況に限られるのです。国が大きいので気も大きいです。少々のことは水に流さないと、多民族環境でやっていけません。

 ですから、西野さんが見られている中国人は、普通の中国人ではないと思われた方が良いように思います。普通、中国人は余程のことがない限り強烈に批判はしません。

 もちろん、大陸において、中国人同士で問題になることはありますが、それは日本と変わらない、内容は違いますが、本質的に変わらないです。

 では、どうして中国人は島に来るなり攻撃性を示すようになるのか、今時、訴訟になる可能性もありますからね。何かがおかしいのでしょうね。

 北京にいた時の欧米人らが、ビザの関係で出国せねばならない時に、日本に遊びに行く人がいたりしました。日中間で取引している企業もありますので、行き来もあります。ほとんどの人が日本が好きになりますが、住むことには抵抗します。特に東京を、排他的な村社会だと、多くの人が言います。「東京砂漠」なる言葉までありますからね。

 だけど、日本は好きという非常に矛盾した感情を持ちます。それで「どうして日本は変なのか?」と聞かれます。それでその場にいた英国人に「島なんか、どこもそうだよな」というと、彼は黙ってうなずいていました。(同意だったのかはわかりません)「あんたは問題ないのか?」、「すぐフィットするよ」、「すごいな」となります。

 大陸人が島に住むのはかなり難しいです。特に、中国人というだけで風当たりも強く、周囲の目も冷ややかです。普通、大陸の中国人はそこらの知らない人とでもすぐフレンドのように話しますので、その感じで、日本の空港とか電気ビル?あたりで働いている中国人に気軽に話しかけると彼らはすでに気持ちが石のようになっていて、アンドロイドのような話し方しかしません。

 あまりにも苦労し過ぎて、感情が死んでいる人がかなり多い病的な状況です。日本人がすごく怖い人も多いです。それぐらい虐められています。島特有の陰湿さに全く対応できていません。

 もちろん、日本にいる中国の方でも普通に接することができる方も多いですが、それは彼らの中でいろんなものを咀嚼したり諦めたりした結果で、わだかまりがない人はほとんどいないと思います。

 日本人とか、自分の仲間ではない中国人は全部敵で、どうせ攻撃してくるから、まず先制すべきという感じになっている人も少なくないのではないでしょうか。

 日本人は攻撃しているつもりはないかもしれませんが、多民族で融和している民族からすると排他主義だけで宣戦布告と捉えます。そのように思われてしまう振る舞いが日本人にはかなり多いです。そういうことに気をつけねばならない環境で育ってきていませんのでしょうがないことです。

 しかし、国によっては、このような振る舞いでは殺されますからね。ラテン人などは非常にフレンドリーですが、地が明るいかは別です。生きていくために必要な振る舞いだから、無用に敵を作らない処世術なのです。

 そこで、攻撃的な中国人ですが、それで成功しているのでしょうか。アメリカの大統領選挙など見ていると、とにかく批判合戦で、島ではあり得ない、そういう人は向こうに行った方が成功しやすいのではないでしょうか?

 島では難しいのではないかと思いますね。ますます攻撃性を高める結果になるだけではないでしょうか。日本人には特有の難しさがありますが、中国人にもまた違った意味であります。そういうネガティブな要素が強い性格だとかなり難しいかもしれません。

 ですから、中国人でも人によって、日本でフィットできるかどうか変わってくると思いますね。問題がある人は1割しかいなくても、9割ぐらい目立ちますのでね。

 演奏法の違いも、独自性を出すことで権威を高めたいということなのでしょうけれども、逆効果になりかねないのではないでしょうか。せっかく、本場からたくさん先生が来ているのに、呼べばゴタゴタ続きでどうしようもない、それでちゃんと教えて貰っている人は多くはないのではないでしょうか。まだ無料のネットの方が勉強になるんじゃないですか。競争と批判合戦では、何を信じて良いのかわかりませんからね。

(ここで後ほど注釈を入れさせていただきました)
あまりポジティブな内容ではないので、どうしようかと思ったのですが、二胡をされる日本人は非常に進歩的で偏見を持たないからできるのだと思いますし、日本人と中国人が違い過ぎることから来る諸問題を嘆いておられる方も少なくないと思うのです。ただ、理解できていないだけのような気がします。それで、ちょうどよい機会かと思って失礼して話させていただきました。

 この中で島国は閉鎖的で陰湿だと言っていますが、この持ち味が最大限発揮された究極例がリゾートです。人々は大陸の開放よりも、狭い島の閉鎖的な隠れ家にドキドキします。有名リゾートは島国に集中していますが、これは偶然とは思われません。島国人の内向きな性質もリゾート地には必要なもので、そういう特徴も良い方向に伸ばせば大変結構なことで人気もあります。大陸人は大陸人で良いところもあるし、そこで互いに無理解があると、悪いところだけが出てしまうのかもしれません。外国人が日本は好きだというのは、多分にリゾート的雰囲気があるというのも1つの理由としてあると思います。外国人は日本の代表的な諸都市を「テーマパークのようだ」と言います。これだけ、あの手この手で商売しているのは日本人ぐらいではないでしょうか。テレビの広告もこれだけ面白いものがよく出るなと感心するぐらいの驚異的な水準です。島国でなければ無理だったであろうと思われます。ですから我々島国人が本質的に何かを変える必要はないと思います。そのままでいいのではないかと思います。ただ、外国などの異質なものの介在を許せば、難しくなってしまうこともあって、我々がよりよく理解すれば問題もなくなっていくように思います。



【 西野 → 】
 そうですか、毒ですか!!ある意味、情念とか、感情とか、強く訴えかける力とも言えますね。毒にも薬にもならない、という言葉もあるくらいですから、人の想いを音楽に換えていくという事と考えれば、良いのかもしれませんね。

 同じ文字でも、中国と日本では違うとらえ方というのがあるのですね。私が知っている限りですが、中国人あるいは日本人以外と言ってよいのかもしれませんが、日本に長年住んでおられる方は別として、海外の方々は強いですね。自分の意見をかなりしっかりと言いますし。自分の考えと違うと、相当強烈に人のことも批判しますね。

 二胡で言うと、中国人の先生方の中には、その楽器は良くない、だからこれを買え、と言う方がかなりいます。ましてや西野二胡などとんでもない、と言う方も多いです。

 弾き方にしろ、楽器にしろ、相当違う意見が多く、例えば、この先生の演奏が良いなという事で、その教室に通ったとすると、まったく今までの弾き方を否定されたりもしますし。

 ただそれが、単なる批判であり、はっきりした理由が無いことが度々あります。まあ、気に入った先生なのだからそれは従うしかないのですが。でもこう思うこと自体が日本人なのでしょうね。

 教室によっては、中国曲だけを演奏練習させるところもあります。いつも気になるのですが、その中国曲、と言われるものの中には、案外アラブ系の曲も入っていたりしますね。

 また、劉天華師の曲を聴いていて、マーチが入っていたり、ワルツが入っていたりという印象を受けるのです。ヴァイオリンを弾いていた方ですから、むしろ西洋音楽に近い感じ、あるいはそれを狙ったところがあるのではないでしょうか。

 まあ弾き方によっては、かなり中国の感じもしますが、私たちの様に西洋音楽を子供の頃から聴いてきていると、その譜面を五線譜で見ただけでは、むしろ西洋音楽と感じてしまうのです。

 質問なのですが、時々、弦堂さんは、私の作ったニ胡が日本の音がする、とおっしゃいますね。言葉では難しいかもしれませんが、中国ニ胡との、音の違いはどんなところですかね?

 また、中国音楽を理解できないとニ胡は上手にはならない、と言う先生もいます。ところが反対に、中国の音大の生徒さんなんかは、やたらに早いクラシックを、バリバリ弾きます。まあ、これは練習のためもあるかもしれませんが。


【 弦堂 → 】
 西野さんの二胡は江戸の音がすると思います。京都とか、また他の地域とも違うと感じられます。人の音に対する感覚は言葉で形作られていると、うちの大陸の老師が言っています。ものまねのように特徴を強調した、でたらめな広東語や四川語を話し、そして曲の断片を披露します。その上で、自分は広東語のネイティブではないので広東音楽は本当の意味で理解していないなどと言います。音楽を理解しようとすれば、音楽ではなく言葉から入ると言います。

 ですので、それぞれの地域の特徴を掴むだけであれば、それほど難しいことではないように思います。筑前や薩摩の琵琶のようなものは九州弁を理解していないと演奏してもおそらく違和感があります。京都の芸者は別の地域から修行にきた者でも必ず京都弁を話しますが、そうでなければ演奏の語感も違ったものになります。

 長年、東京に住んでいる人が西野さんの二胡を見られても特徴はわからないかもしれません。あまりに普通に聞こえるためです。しかし中国人などが聞くと明らかな違いを認める筈です。

 東京も世代によって違い、最近の若い男性が女性のように話したりと根本的な概念が違ったりするので複雑ですが、そのため東京の音とは言いにくい、それで江戸の音と言いましたが、本当の江戸の音はまた違うのかもしれません。


〜 まだ終わっていません。もう少しかかります。