あまりこういう哲学とか精神医学方面の話はしたくないし、そもそも関係すらないと思うのですが、我々は二胡をやっている時点で特定のものに挑戦している人であるし、その過程で何かと自信の欠落につながりやすい事象には事欠かないという環境下で、周囲にも喪失感のある人も少なくない、それとこの問題を抱えたままでは成功は難しい、成功の基準は人それぞれですが、どのようなものであれ達成はしないということがわかっていながら、どうにも放置されているという現象があります。たまたま弦堂の周囲にそういう人が複数いて異常なほどの自信の欠落、もはや病気ではないかと思うぐらいで、いずれの事例でも「病院に行った方が良い」と本当に当人に言いましたが、しかしどう思われますか? 病院で治せますか? それぐらい大きな問題です。その一方、世間一般で言われている、そういう人たちは「ありのままの自分を受け入れる」ことで克服できるという見解にも違和感があります。この問題に関しては根本の大前提自体に違和感があります。そこでこの問題を考えてみたいと思います。
結局、自信であるとか、自分自信を受け入れるとか、そういう話から始まっている時点で病んでいるのではないか、と思うとおそらくその人はこの種の問題とは無縁でしょう。世の中、面白いことがいっぱいあるのに自分、自分というのは如何なものか? 現状の自分を受け入れるのですか? それは努力している人なら断じて許されないこと、常に改善、常に進歩せねばならないからです。常に問題点を探し向上せねばならないのに、ありのままの自分なぞ到底受け入れることはできないのです。そして自信というものは本来持たないように努力すべきものです。自信が欠落した人に限って自信過剰に行動発言する傾向がありますが、その辺から根本的に間違っているのではないか、自分自身の中にある自信は危険信号だと、影で見えなくなっている重要な部分をごまかす要素だと、そういう概念が欠けているということになります。結局、自信の有無が問題になる時点で傲慢なのではないかと思います。これまで複数の人と話してきてそう思うようになったのですが、治療は無理だというのはこれが根拠で、まず本人が変わる気がない場合が多い、周りに変化を求めている場合がほとんどで、実際に周囲を変えようとするサイコパスもいます。これは極端な臨床例に遭遇するといずれもそうだったということなのですが、実はこういう人こそすでにありのままの自分を受け入れ済みなのです。だから一般の精神医学は根本から間違っているのです。患者は自信がない理由を幾つも挙げますから、聞いている方は「ああそうか、自信がないんだな」と思いますが、実際には完全に自分を肯定しており、発言することで周囲を自分に都合よく変えようとしているだけなのです。もちろん、このようなことを本人に言って、あなたは変わらなければならないと思ったことはないのか?なんで周りなのか?などと糾すと患者は激怒しますが、それこそが核心を突かれた証拠であって、そもそも自信のない人間が他人の見解に自信満々で激怒すること自体が奇妙ですから指摘しますとさらに顔色を変えますが、それはすでに弱々しい自信喪失した人間のようではありませんからそのことも本人に告げます。そして「今日から自信は全て捨てなさい」というと「嫌だ」と言います。自信はあるのです、あり過ぎるぐらいにギラギラ、実際には自尊心の塊なのです。つまりなんでこういう話をしたかというと、自信があるというのはおかしくなるということを理解していただくためです。程度の差こそあれ、傲慢さというものも誰しもが持っています。これも極力排除に努めねばならない、怪しい表現を借りると「解脱」せねばなりません。(追:もしかすると現代の精神医学はこのようなことはすでに踏まえているのかもしれません。不可能なことを論じてもしょうがないので玉虫色の結論でお茶を濁しているのではないかと疑われます。そうだとすれば、自信が喪失していると言う人々は捨てられていることになります。それしかやりようがないのではないかと思います。人間はそう簡単に考え方を変えられないし、そこにきてかなり傲慢ともあれば、相当ハードルは高くなるでしょう。本人次第でしょうね)。
芸術関係は独特のヒエラルキーがあります。音楽の場合はそれを操作することは極めて困難で、有力者に取り入れば上に上がれるといったようなものではありません。無名で誰からも相手にされていない状況から一気に巨匠になることも可能ですし、死後に最下層からトップにランクを変えられることさえあります。一方、音楽界で様々な栄誉に浴し、多すぎてトロフィーの置き場にも困る、天皇陛下にも目をかけてもらっている、高位の官職を歴任してウィキの履歴欄も記載で一杯・・であっても、巨匠になれない人は相当数いらっしゃるでしょう。結果が全てです。我々は図らずも、或いはわかっていながら、そういうところに身を置いていることになります。そうするとどう考えますか? 自分は?となりますね。それは問題ないでしょう。自分のできることがこれぐらい、というのがわかっていたらそれに応じた行動をするだろうし、東京にデモを送ったりとか、ネットにアップしたりして世間に問います。では、そこで自信は必要なのか? 実際に行動した人に聞くと両方の答えがあるでしょう。自信はなかったとかあったとか、そういう具合です。しかしその根拠を問うと、作品と世間の風潮との関係とか、その兼ね合いでいけるかもしれないとか難しいとは思っていたけれどもとかそういう話になってきます。自分自身の自信についての話は出ないし、自信について話したとしても短期的な現象についての感覚であって、そんなに重い話は出ないものです。そこを自分について重々しく話しちゃう瞬間にどうしても小粒感が出てしまう、ヒエラルキーの上の方の人には見えないものです。なぜなら仕事と結果が全てなので、本人がどれぐらい自信があるかは聞いてもしょうがない、どうでも良いことだからです。人間というのは結局、自分のことしか考えていません。いや、この表現は語弊があるでしょう。特に日本はエンジェル投資家なる人々も少なくはない土地柄であるし、彼らはというと自分のためではなく世間のために何かを成したいと考えています。ということは世間のためにそれほど価値がないものには何もしないということなので、何れにしても受ける側の立場で考えているという部分については自分中心の人たちの発想と大きく変わるものではありません。これは間違いとは言えないでしょう。必要な観点です。最終的に何が生み出されたかが重要なのであって、自信はどうでも良いのです。自信が決定的にゼロでも、仕事はしてくれておったらそれでOKなのです。自信が崩壊してボロボロでも、優れた演奏を残してくれたら、大変評価されるのです。尾崎豊とか。
それで皆さんにおかれては、まずは健やかに、健全な精神で演奏生活を歩んでいただきたい、より質の高い演奏を求めるならば、ナルシステックな自己憐憫に酔う暇はない、やることは多い、その追求の過程において自信があるかどうかはどうでも良い、だけども、弦堂からの第三者的勝手な希望を述べることが許されるならば、経済的な面でも皆さんの努力に応じた成果を得られることを望みたいものです。数字について話すのは色々感情論にもなりやすいので、これも話したくはないのですが、金額は評価、絶対的な真理ではないですが、これも一理ある、評価はあるに越したことはありません。しかし数字を自信に転換すると暗闇を体験するでしょう。自信を持たないことが強さだと理解すべきです。