伝統について - 二胡弦堂

 


北京・故宮  皆さん、それぞれいろんな理由、特に理由はないかもしれませんが、ともかくいろいろあって今は二胡をやっています。二胡というと中国民族楽器です。中国伝統音楽を奏するものです。ところが伝統はやりたくないという前提でレッスンを受けに来る新規生徒が多いので、老師の中には一応その辺は確認するという方もおられるようです。「あなたは二胡で何をやりたいのですか」といったような漠然とした質問です。こうして生徒さんの希望に合わせられるようにします。二胡で演奏家になったら、聴衆という立場の人々と対面します。彼らは実際に中国音楽に携わっていないことが多いですが、それでも中国音楽にある程度の関心がありますので二胡を聴きに来ています。それでできれば中国独特の音楽を聴かせて欲しいと思っていることが多いです。ところがこれが、一旦自分が習うという段階になると否定する場合が多いようですね。中国音楽に関してはテレサテンあたりで十分という考えを持った生徒さんもおられるみたいですが、だけどテレサテンの作曲はほとんど日本人なんですけどね。こういう状況になりがちなのは、伝統という分野に首を突っ込むと収穫が得られないだけでなく苦労するだけになりそうという雰囲気を感じるからかもしれません。学ぶのが難しいのは確かだと思います。しかし伝統の重要性についてはここで考えておきたいと思います。

 日本人はラグビーはあまりよくわかりませんが、トンガ(人口10万人)、サモア(19万)、フィジー(85万)といった小さ過ぎて探すのが大変なぐらいの小国に日本(1億2千万人)がなかなか勝てないことは知っています。さぼっているのでしょうか。そういう認識だと、あなたはラグビー協会から怒られます。凄い努力しています。とにかく環境を整えて、腹いっぱい喰って、国際試合もたくさん組んで、外国から優れた指導者を招聘して、研究に研究を重ねて、強化費用出しまくりで、外国人をたくさん帰化させて、とにかくやれることは何でもやっています。有利な環境でやりたいだけやってそれでも小国にすら勝てない「さぼっている」と言われかねないのは当事者であればたいへん辛いところで、咽から手が出るほど結果が欲しいのですが壁は厚いのです。うちのところの宝塚市で20万らしいので、それぐらいの選抜でトンガぐらいは圧倒したいのですが、ぜんぜん無理というのもわけのわからん話なのですが、日本代表となると余計に訳がわかりません。トンガ国の予算より宝塚市の方が上の筈なのですがね。だけどこれ見て思うのは、挑戦している人が凄いなと思いますね。「あんな小さい国に勝てないのか」ぐらいは親戚から言われると思うのです。それでも諦めたという話は聞いたことがありません。立派な戦士たちが世界と闘っている、ここまでは良いが相手がどうも小さ過ぎるのです。何が違うと思いますか。伝統でしょうね。そして日本もいつまで弱いかわからない、現に強化の成果も出てきているようなので、強豪国と渡り合う日はそんなに遠くはないかもしれません。これも伝統の蓄積でしょうね(注:後に日本は強豪国になりました)。伝統というのは空気みたいなものですが、努力や経済力では乗り越えられない巨大な力なのです。初優勝を狙って決勝戦に臨む、絶対に勝たねばならないのでボロボロになるまで戦います。敵はジリジリ後退します。しかし敵はすでに10回もトロフィーを掲げている名門です。この場合、最後に勝つのはだいたい名門です。実際、理論的にはその勝負には過去は関係ありません。0対0からフェアに始まります。アドバンテージも0です。そもそも過去の選手は引退しておりメンバーは全員入れ替わっていますので過去は何の意味も持ちません。それでも伝統ある方が有利です。それぐらい伝統には勝ち難いのです。乗り越えるのはとてつもないことです。

 二胡をやると言って手から血が噴き出すぐらいすごく努力しても、その人よりもろくに練習もしないでブラブラ本場をうろついている方が良い場合が多い、とてもアンフェアな話ですが「門前の小僧、習わぬ経を読む」ということわざもあるぐらいで、環境というのは圧倒的な差を生みます。日本の方が強化費用は莫大だが、トンガに行った方が良いのです。あなたの"トンガ"は何ですか。伝統のエキスを吸収しなければならない、伝統といえば蒋風之です。劉天華が30代の若さで夭折したことで、彼に学びたいと思いながら果たせない人がとても多いという状況を見て蒋は劉天華の教えを資料にまとめて自分自身も録音を収録するなど尽力しました。これがなかったら劉直系の奏法が失われていたことになります。偉大な功績です。それなのに煙たがられています。演奏についても「どこが良いのかわからない」とさえ言われています。弦堂の録音の稿に蒋風之自身の演奏をアップしていますが、弦堂が録音したわけではない、ただ録音を貼っているだけなのに「何だこれは!他にないのか?せっかく勉強しようと思ったのにがっかりした」という苦情が来てびっくりしたこともあります。知らない人でしたが。この人は二胡関係者ではないと思いますね。

 江南絲竹という音楽があります。"江"とは長江のことで、その南の流域の"絲竹"、これは絹と竹、つまり弦と管、管弦楽のことです。長江南部管弦楽です。主要地域は北は長江沿岸、南は上海、蘇州、無錫ラインです。その内側全体です。南は杭州、北は南京まで広がっていますが、主要地域は上海-無錫ラインより北です。その中に常熟という街があります。劉天華の師・周少梅はこの出身でした。二胡は即ちこの地域の楽器だったので、彼の教本には江南絲竹がたくさん含まれており、それだけでは伝統を吸収するには不十分ということで戯劇や民謡などもたくさん含められていました。周少梅はレコードを残しているのですが、まだ見つかっていません。劉天華は自作の2曲だけ残っていますが、彼の音楽は西洋を取り入れ始めたものなので、伝統音楽についてはどのように演奏していたかはわかりにくいものがあります。そうしてわからなくなっているところに蒋風之の録音があります。これを聴くと、劉天華は北京に行ってもまだ江南絲竹の様式で演奏していたらしいということがわかります。蒋の演奏を聴いて江南絲竹をあたると、なるほど共通点があります。これだけ近いと、蒋の演奏は江南人には違和感がないでしょう。蘇州に行くと蒋のような音楽は結構あることがわかります。録音が悪いのでわかりにくいところもありますが、譜もありますので問題ありません。書いてあるので一通りわかります。そこで自分で演奏してなぞってみます。そうしたら、その譜面には表面では窺えない説得力のようなものがあることがわかります。説得力のようなものというとおかしな表現ですが、他人が演奏している時にはわからないのに、自分がやるとわかるという奇妙なものなのです。バッハもそうですね。あれは聴く音楽ではなく自分でやるものでしょう。そうでないと魅力がわかりません。全く同じものが蒋による劉天華伝承譜にはあります。ここまで来たらどうして蒋がこの伝統を残そうと思ったのか理解できます。そして絲竹もやらないと理解は難しいということもわかります。ここまで来て改めて蒋風之の演奏を聴いたら、ぜんぜん違和感は感じません。非常に魅力的に聴こえます。そしてこれらがどうして"伝統"として残っているのかもよくわかるようになります。

 蒋風之に取り組むと、二胡にはこんなにもテクニックが多いのかということに驚かされます。これは現代二胡教育で技術とされているものとはいささか異なるものです。現代の技術はどのような曲でも安定して演奏できるということに主眼を置いています。蒋風之は表現したいものと同じ数の技術があるということを教えます。両方重要ですが、伝統を中心に考えるならば、表現すると言ってもまずどういった選択肢が考えられるのか、そしてそれを具体化するにはどうすれば良いのかといったことを教える蒋風之は避けて通ることはできません。