無料で学ぶことについての論考 - 二胡弦堂

 


上海・豫園  周囲には学べるものがたくさんあって、その見たものにどれだけの価値を見いだすかは個人の興味も関係していますのでそれぞれですが、それが「有料か無料か」ということと興味は因果関係が成立しにくいと思います。興味のないものは無料でも要らないし、皆さんの多くは有料でも学びたいので二胡教室に通っていると思います。ネットで無料の教則ビデオが中国のサイトなどにありますから、わざわざ教室に通うのは無駄でしょうか。そう考える人もいるだろうと思いますし、もっとしっかり学びたいということであれば、それに係る費用を惜しむことはないと思います。

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 こうして客観的に見ると、すごいレベルの低い話だと感じられると思います。こんなところに書いてしまって本当に大丈夫なのかと心配になるほどです。こういう仕組みが見えてしまって、世間をバカにするような人材が大学をすぐ辞めたりします。同じく就職した企業も辞めます。周りが無能であることに目覚め、起業します。ですが、そういう人材こそ欲しいという企業もあります。田原総一郎さんが生前の松下幸之助にインタビューしたものによると

 「私は小学校もロクに出ていません」と、松下さんは自分の学歴についても説明した。どうも大学へ行くと、余計なことを覚えてくると。高校を出た社員ならば入社してすぐ給料を払っていいけど、大卒は、大学に行った4年間は、ロクなこと習ってないから4年かけて悪いものを全部取り除かなければならない。したがって入社4年間はむしろ給料をあげるんじゃなく、授業料が欲しい。

 彼の言う「余計なもの」「悪いもの」とは何なのでしょうか。世の中の教育はまず社会のためにあります。経済活動、生きていくためにあります。社会の一部になるためのものです。しかし、大学が馬鹿馬鹿しい人はすぐに中退。その人たちも十分に社会の一部になっています。何が正しいというよりバランスなのかもしれません。松下幸之助は起業家のような人材が欲しかったのでしょう。大学まで行ってしまうとそういう精神が抜かれてしまう。4年ぐらいで元に戻るならまだ良いかもしれませんが、それは松下さんのような先生がいての話でしょう? 大卒には給料払う価値もないと? 随分なことを言われますね。大学は徴兵に行ったみたいになるのですかね? 軍隊みたいな、企業戦士だから。最近、様々な企業がこういうことを勉強して、人材の獲得方法が多様になってきています。書類審査のようなものではもう何もわからない。最近友人が半導体の企業に転職しましたが、面接の回数が半端なかったらしい。しかも内容がほとんど雑談だったらしい。一定時間共に過ごさないと人はわからない。労力は惜しまない。それぐらいの認識になってきています。学歴で本当の教育レベルは分かりません。

 こうして教育全体を考察した場合、その重要性、学歴に関係なく常に教育を受けていなければならないということは感じられます。それは学校に限らず、常に何かを学ぶ姿勢が重要だということです。無料だからといってそれを軽視する見方は教育を重視しているとは言えないでしょう。