楽器は合う合わないがあるので、どうしても合わないと思ったらしょうがないと思います。よくあるのは、単音の楽器と複音が出る楽器で頭の使い方が違うためか片方が苦手という例とか、口で吹くのと手を動かすのは違って片方は合わないといったような向き不向きがあるということです。自分に何が合うのかしばらくやってみないとわからないので難しいところです。合うから好きとも限らないので自分で判断するしかありません。劉天華時代の中国音楽、国楽と言っていましたが、この頃の教育は二胡だけやるということはなかったようで、歌うし琵琶もやるということで、さらにはバイオリンもやったりとか、幅広い技能の習得を目指していたようです。こういう環境であれば何が自分に合うのかわかります。幅広い素養も身に付きます。今は二胡だったら二胡しかないので、合わなかったらやめるしかありません。これはどうにもしょうがないと思います。しかしすぐに止められない背景には、高価な楽器を買ってしまったということ以外にも「こんな筈ではなかったのだが・・」という思いもあるかもしれません。始める前は二胡という楽器に魅力を感じ、何がしかの理想を抱いて始めた筈なので「何か方向性が違うような気がする」という思いは感じられることがあると思います。この場合は問題があると思います。幾ら自分に二胡が合わないと言っても楽器にはそれぞれそれなりの魅力というものがありますから、それが分かった上でやめるだったらいいですが、よくわからないからやめるは、それは環境とかいろんな問題が関係しているわけで、適切な判断を下すところまで行っていないのにやめるということになります。1つのことを生涯取り組まなければならないことはないので、何かを数年やってやめるということはありますが、その場合、10年後でも少し憶えがあるということで多少はできたりするものです。だけど何だかよくわからん内に停止してしまう感じがあったら、それは不幸なことです。事故と言っても良いぐらいの状況です。
まず二胡というものを見ていないと二胡をやろうとは思わないので、何かモデルがあって、その上で始める人は多くいます。弦堂個人は中国音楽をやりたくて二胡だと学習する上で都合が良い媒体だからという、二胡を全く重視していない考えでやったのが最初ですが、こういう人はあまりいないと思います。黎明期の頃は女子十二楽坊を見たから二胡をやりたくなったという例が多かったようです。今では二胡演奏家がたくさんおられますから、その中の有名な人の名を挙げて「何々みたいに拉きたい」と言う新規の生徒さんが割と多いということです。これは何を意味しているのか、こういったプロの楽団やソリストの場合は興行というものがありますから、全ての人ではありませんが、全く新しい、或いは新しく生まれ変わった音楽といったようなものを提供したりします。特徴がないと市場で埋もれるからです。だけど生徒さんの方では、そういうところから入ると違和感があるかもしれません。先生はいろんな土台があって今に至っており、最近演奏会などでやっていることを初めからやっていたわけではありません。イメージだけで入るのはともかく、現在の先生像だけで、それしかやりたくないということであれば何かおかしい感じになりかねないでしょうね。
もし邦楽をやるとなった時に道場を探していて「生田流」とか書いてあれば安心します。どこでも書いてあるのでもはや特別なものではないですが、それでも安心感はあります。どんな安心感でしょうか。きちんと基礎から素養を身に付けられそうだという安心感です。二胡の生徒は違うのでしょうか。同じだと思います。ライトな曲ばかりだと恥ずかしくて知り合いに「二胡をやってます」と言えないですから。そういう背景があるので教室の募集を記載する時にいかさまでも「・・派」と掲載しておけば生徒は集まると思います。言うとやるところが出てくるから言いたくなかったのですが。それでもきちんとしたことをやっていればいいのですが。そうすると、生徒が女子十二とか何でもいいですが、何々になりたい的な発言をしがちなのはどういうことでしょうか。これは完全に素人見地から見ていてこういうことを言っているわけで、彼らはそこから中国文化の魅力を感じとっています。しかしプロがやっている興行は軽そうに見えたとしても本質は全くそうではないのですからその見地は正しいのです。改めて女子十二楽坊、もう古いですが、これをネット等で見てみますと、結構古曲のレパートリーが入っています。古曲は何百年も風雨に耐えてきた傑作なので、プロデューサー見地からすればジョーカーなのです。中国文化がよくわかっていない日本人を説得するのに、こういった必勝カードを次々切らないと生き残れないという判断があったものと思います。だけど聞く方は何だか初めて聞くものばかりで新鮮味がある程度の認識しかないのですが、なかなか良いんではないかとなるわけです。それは当然です。時代を超えてきた作品なのですから、何時代何民族の人間でも魅了できるのです。これを聞いて二胡をやりたいということであれば、パッと見た感じが軽くとも内実は全く軽くないのです。そもそもテレビに出て派手な演出をやりたいから二胡、ではないわけです。文化の魅力をもっと味わいたいから二胡、なのです。こういう重たい生徒を受け容れることのできる教室はそんな簡単に用意できないと思います。
生徒の方も自分の希望を明確にすべきだと思います。どこかに入会すれば、後は指導してくれると安易に考えてはいけないし、それは二胡だけではないです。偉い先生のところに入門しても、何だか挨拶ばかりだな、というところもあるのですから。お中元から始まって次は老師の演奏会の世話の段取りとか、レッスンは毎週飾り付けの準備とか練習なんかぜんぜんやらないのに働かされて月謝も払うとかありますね。簡単に教えないとか、どこでもありますよね。見て盗むものである、環境に置かせてやっているだけで感謝して欲しいと言われます。二胡の教室でさすがにここまでのところはないようなのでましな方だと思います。はっきりやりたいことが決まっていれば、こういう傾向のところにはいつまでもいないと思います。
老師の方も良い生徒を獲得できれば苛々はなくなりますね。認識の高い生徒はそんなにいないので9割方は諦める必要がありますが。どんな場合でも"中国文化の香り"がする教育内容になっていないといけませんが、あまり簡単なことではありません。生徒もいろいろいますが、結局はここに集約されます。ここで最初の質問「前から悩んでいましたが、決心して二胡を止めようと思います」に戻りますが、その原因が、美しい中国文化を体感できないといったことにある、周りのレベルがおかしいのではないかと批判するということであれば、たぶんそれはあなた自身に問題があります。問題あるところにまだいること自体が自分自身の問題であって、あなたもその問題の一部になってしまいます。本人は否定しても外部から見たらそうなります。月謝を払っている時点で積極的な支持者ということになるからです。文句を言うと自分の価値を下げるだけだから、すぐに出ないといけません。出てやっていけないのだったら、それはあなたの実力の問題でそれだったらそもそも周囲を批判する資格はないでしょうね。そういう流れで「二胡をやめる」となっているのであれば、結論としては、老師を探す努力が足らないでしょう。或いは良いところに在籍するとやっていけないから行かないのではないでしょうか。求められることも違ってくるし、自主的に取り組めなければ怒られますからね。そういうところは純粋に学習に専念していてそれ以外は念頭にないので、取り組む姿勢とか人格は教えません。残していたら収入になるからといって残しません。辞めさせられます。厳しいと思うかもしれませんが、金銭の受け渡しがある以上、普通に誠実だと思います。厳しいどころか、優しいのではないかと思います。良い環境は極めて得難いということを念頭に置いた上で身を置く場所を考えれば、二胡は簡単に止められない筈です。楽しくやりたい? これぐらいしっかりやるから楽しいんですよ。いい加減なのは何もおもしろくないんじゃないですか。楽器をやるということは譜面や音楽そのものから美を見いだす作業なのですから。